そのトラック会社の会社名なのかは定かではないが、見ることがある。
なぜ見るのか、なぜ意識的に目に入ってくるのか、
といえば、私にとっては懐かしい、馴染みのある名前になっているからだ。
オーストリア人、大人にも子供たちにも人気のある、アウグスティン、
愛しのアウグスティンについて調べたことがあった。色々と資料を読み漁ったことがある。
そして、愛しのアウグスティンについて、その人生を私なりに描いてみた。
オーストリアに住んでいる自分としてはオーストリア人のことをもっと理解できるようにと思っている。
それを今回は御紹介したい。
以下の通り。
時は下って下って、、、、、17世紀も後半。
所は、ウィーン。古きウィーン、昔のウィーン。
その人とは、Der liebe Augustin。「愛(いと)しのアウグスティン」。
通例、そう呼ばれるようになったようです。 あだ名、愛称ですね。
で、この「愛しのアウグスティン」とは誰?
今風に言えば、ミュージシャン。 流しの歌手。
楽器は何を弾いていたのかというと、ドイツ語で言う、Dudelsack。パックパイプ。風笛。
バックパイプと聞くと、わたしなどは直ぐにスットコランドを連想し、スカートを履いた男たちが両頬を膨らませバックパイプを吹きながら行進している姿が目に浮かびます。その楽器が奏でる音も実際に聞いたことがありますが、耳の鼓膜をやけに神経質にさせるものです。
さて、昔の古きウィーンを想像してみる。
1679年の冬も終わろうとしていた。ウィーンの人々の生活は全てが順調だった。このバックパイプ吹きは毎晩、酒場に行っては演奏しながら歌っていた。酒場にやってくる客たちはアウグスティンのそんな演奏や歌を楽しむ。アウグスティンが提供してくれる楽しい夜の一時を過ごすのであった。
酒場の店主にとってもアウグスティンは大歓迎であった。何故かって、アウグスティンがやって来てくれれば、たくさんのお客が集まり、売り上げも増えるといった具合。
アウグスティンにとっても、好都合であった。Fleischmarkt 肉市場にある「赤い屋根」と呼ばれる酒場へと毎晩行き、自分の演奏と歌で客たちを楽しませ、店主の懐も暖かくさせることが出来る。店主は喜んでアウグスティンが好きなビールを飲ませてあげる。食事も出して上げる。そのくらいのサービスは店主にとっては当然であった。 店主の懐が暖かくなることは言わずもがなであった。
アウグスティンが現れる酒場はいつも、客で一杯になるのであった。勿論、客の腹の中も酒で一杯になる。
今晩もアウグスティンの演奏を楽しめるぞ、アウグスティンの歌を聞いてご機嫌になる客たち。
この年の春、ウィーンの人たちにとっては別の意味で、長く記憶に残る年となった言える。
全てが急激に変わってしまった。多くの家庭では病気が、そして死者が出た年でもあった。
こんなことになるのも二度目であった。
こんなこと?
ハンガリーから侵入して来たそうだが、それもひっそりと忍び込んで来たそうだが、ウィーンはペストに見舞われた。
ペストは短時日のうちにウィーンの街を総なめにしてしまった。2、3週間のうちに何千という人が亡くなった。殆ど全ての家にペストは訪れた。ペストに罹るのを恐れてウィーンの街を去ることが出来た人はそうした。 またある人は世界の終わりを感じ取り、貯金を無駄に使い果たすのであった。
病人の数は日に日に増し続け、死亡件数も増え、路上でのたれ死に会う人たちも出て来た。死者が路上に横たわったまましばらくは放置されたままになることも珍しくなかった。富んでいる者も貧しき者も、老いも若きも、男であろうと女であろうとこのペストの犠牲になった。
かくして、ウィーンの街中、色々な状況下で亡くなった死者、その死体でうず高く積まれた荷車が絶え間なく行き交った。ウィーン市に雇われた死体運搬人は路上、放置されたままの死体を見つければ拾い上げ、 死体運搬車に積み上げ、市の外、ペストで死亡した人たちを処理するために特別に掘られた大きな穴、ペスト穴に放り込むのであった。穴が死体で一杯になった時には穴は埋められることになっていた。
当時、ウィーンには愉快な歌手でもあり、バックパイプ吹きでもあったアウグスティンという人も住んでいた。
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