名乗らないのですか!?
姿が見えないから?
電話が掛かってきたのだった。
別の電話が良く掛かって来た。
「○○君、いる?」
○○というのは我が息子の名前ではある。
我が家共有共用のハンディーを手に取ったと同時に、そうした問い合わせが耳元に飛び込んでくる。
我が家に電話をする人たち、つまりオーストリア国のオトナであったりコドモであったりするのだが、
電話をするオーストリアの人たちは、その電話で話したい本人がいわば自動的に直接電話口に出てくるものとでも思っている節があるようだ。
「ちょっと待った。君、誰? 名前は何と言うの?」
「××。○○君、いる?」
×× というのは電話を掛けて来た少年の名前だ。
どうして最初に名乗らないのか!?
わたしはいつも不思議に思う。
名も言わずに、言えずに? 突然用件だけを言うとは失礼でないのか!?
そんな電話を受け取って、わたしはいつもちょっと不快に感じる。
もっともその少年に向かって説教をするようなわたしではないが。
「○○はまだ学校から帰ってきていないよ」
「あっそう。ガチャン」
あっそう、ガチャン、と続けて言わなかったが、そのように続けて耳に達した。
一方的に切ってしまう。
いや、切ってしまった。
取り付く島もない。あっそう、ガチャン。
こちらとしてはガチョーンであった。
で、電話に出たわたしは一体何者なのでしょうか?
関係ないよ、ということなのかもしれない。本人じゃないのだから。
君はわたしの貴重な時間を奪っていたんだよ、分かっているの!?
とその子に向かって言いたくもなったが、早々と逃げてしまった。
オーストリアの子供たち(または我が息子の友達、と言い変えて置こう)は礼儀がない、
とわたしはそんなガチャンを耳に残しながら、つい思ってしまう。
学校では電話の掛け方を習わないのだろうか。または家で電話の掛け方を親に教えて貰わないのだろうか。
それとも親の真似をしているのだろうか。正におやおやだ。
オーストリアの人たち、子供たちは、とわたしは敢えて一般化したような書き方をしているが、
もちろん、オーストリア国の人たちは皆んながそうなのだ、などと断定している訳ではない。
が、ついつい、そんな風に一般化してしまいたくなる現象が日常茶飯事的に、いわば電話番しているわたしに限って起こる。
一般化する、しない、それはわたしの問題かもしれないが。
それで以って問題が解決されるというわけでもないのだが。
「もしもし」と電話を掛けて来た人。
「もしもし?」とわたしも応じる。
「わたし!」
「”わたし”さんですか?」とわたしは応じる、とぼけて。
「何言っているのよ。わたしよ!」
「だから、”わたし”さん、ですか?」
「ねえ、好い加減にしなさいよ! わたしだってば!」
「”わたしだってば”さんですか?」
”わたし”さん、”わたしだってば”さん とはわたしの奥さんのことだった。
でも、電話で聞く声はどこかいつもの声とは違って、
まさに”わたし”さん という知らない人が電話して来たかのように聞こえるのだった。
昼食を取りながら、口に何かを含みながら、
ちょうど今、時間が取れるからと、
わたしの声でも聞きたいのか、
それともわたしはもう寝床から起き上がっているのかと確認したくて、
電話して来たのかもしれない。
電話をするにも食べながらモゴモゴと電話をするとは、
とわたしはちょっと、そう、ちょっとだけ、
ネガティブに思い傾き掛けたのだが、
まあ、相手にも事情があることだろうから、
そうした電話の仕方も有り得るのだろう、
とちょっとだけ寛大な心で自分のことは諦めて、受け入れる。
こちらの人はどうして名乗らないのだろうか。
名乗らない人ばっかりにぶつかってしまっているのかもしれないが。
電話を掛けた先の人が、先に名乗ることをまずは期待している、といった風だ。
わたしはそのように理解し始めた。そのように教えられたこともある。
そうすれば掛けて来た人は間違い電話をしたのかしなかったのか直ぐ分かるから、と。
まあ、それはそれでよい。
誰もがハンディーを持っている御時世で、
特にオーストリアでは殆ど一人に一台という統計が出ていたのを
どこかで読んだ覚えがあるが、
だからハンディーからハンディーへ、
つまり特定個人から特定個人へと特定的な電話をすることが多くなっているのだろう。
直接本人につながると思っているらしい。