作家の開高健(かいこう たけし)の印象記



アウシュヴィッツ。ポーランドの、余りにも有名な(または悪名高き)強制労働収容所があった所ですが、そこともう一つビルケナウを訪れた作家の開高健(かいこう たけし)が印象を語っています。


建物の外へでると銃殺のときにたたせた煉瓦壁や絞首台などを見せられた。親衛隊員の部屋は机と椅子と書類タンスのほかはなにもなかった。むきだしの壁にハッタとにらんでほえているヒトラーの小さな写真がかかり、スローガンが一枚、

 「国家は一つ、民族は一つ、総統は一人。

  と書いてあった。

 銃殺の煉瓦壁のすぐむこうには高圧電流の鉄柵ごしに公会堂風の建物が見えた。それはこの収容所に勤務していた親衛隊員や国防軍の士官、下士、兵士たちの娯楽室で、週末などにワーグナーやベートーヴェンやモーツァルトなどを演奏し、またオペラまがいのものを上演したりして、地獄の釜のふちで芸術に感動していたのである。

 アウシュヴィッツを見終わってから自動車で五分ほどのビルケナウへいった。この収容所に例のガス室と火葬室があったのだが、ナチスが一九四四年に撤退するとき爆破してしまったので、いまは爆破当時の火薬の走った方向を示すままにコンクリートの巨大な破片が草むらに散乱しているだけである。ここは六ヶ国語で「浴槽へ。」と書かれ、貨車に満載した囚人たちを引込線で収容所の構内につれてくるとそこに設けられたコンクリート台のプラットフォームにおろし、いんぎんに消毒と入浴を口実にして素っ裸にされ、鉄条網のなかを行進させてチクロンで虐殺したわけである。これはまさに殺人工場である。ガス室のすぐとなりに焼却炉の部屋があり、ここで死体を焼いた。焼却能力は一日に約二千人であったから、余った死体、およびアウシュヴィッツとビルケナウ両収容所で毎日おびただしく発生する過労死体、病死体、拷問による死体、ときたま起こる自殺死体などをあわせてどこかで別に処理する必要に迫られた。そこで森のなかに空地をつくって巨大な溝や穴を掘り、ガソリンをかけて昼となく夜となく燃やしたのである。そ のあとへもいってみた。松や白樺や樅などの雑木林のなかに草ぼうぼうの空地があり、池があった。池はもとの死体焼却の穴である。大きすぎるから埋めるよりは水をためてかくそうということになって池になったわけである。

 「・・・・・・おいでなさい。」

 


案内のスラヴ顔のおばさんが池の岸辺におりてゆくのでついてゆくと、彼女は水のなかをだまって指さした。水はにごって黄いろく、底は見透かすすべもないが、日光の射している部分は水底がいちめんに貝ガラをちりばめたように真っ白になり、それが冬陽のなかでキラキラ輝いていた。いうまでもなかった。その白いものはすべて人間の骨の破片であった。ほかの焼却穴はすべて埋められ、あたりは草むらとなって、何食わぬ顔で日光をうけていたが、その草むらの土を靴さきでほじると、たちまち骨の破片がぞくぞくあらわれてきた。目を近づけて見ると、ほとんど、骨のなかに土がまじっているというぐらいに骨片が散乱していた。そしてそれ は地下何メートルにも及んで空地全体がすべてそのようなのだと想像された。これは戦後十五年たっても(この文章は一九六一年に発表)どうにも手のつけようがなくて雨風に朽ちるままに放棄してあるのだった。

「夏になると水が少し減るのでもっとよく見えます。この収容所に収容されていて無事に生きのこることのできたヨーロッパ各国の人がこのごろになってよく見にもどってきます。」

 おばさんがひくい声で話しているのを耳にしながら、私は骨の原にたたずんだまま、言葉を失ってしまった。一度微塵に砕かれてみたいと思っていた予感は冬空のしたで完全にみたされた。すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった。
出典「言葉の落葉」II 開高 健 (冨山房)


わたし自身 、今までにポーランドに一度だけ行ったことはあっても、そこを訪れたことがまだありませんので、この作家の描写を読みながら想像するだけですが、 実は当地オーストリアにも、わたしの住むところからそんなにも遠くはないというかそんなにも近くはないというか、考え様、感じ方によっては遠くもあり近くでもある Mauthausen という町があります。ここにも強制収容所があったのです。その建物の壁が残っていますし、毎年、特別な記念行事が催されています。 


白いページ―開高健エッセイ選集 (光文社文庫)
開口閉口 (新潮文庫)

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