コンサート当日の夕方が迫っている。
「いつから始まるの?」
「午後7時からよ」
彼女は5時45分には出発しよう、とわたしに嗾けていた。
「そんなに早く行ってどうするの?」
「良い席が取れないかもしれないから。
指定席ではなく、自分で好きな所に座れるようになっているのよ」
まあ、早過ぎたとして、遅れて来るよりも益しだろう。
「デジタルカメラを持ってゆこうか?」
「何のために?」
「何かを撮るために?」
「何を撮るの?」
「何か。」
それ以上会話は進まず、わたしとしても持って行く必要もないだろう、と決めてしまった。
ちょっとした荷物になるからなあ、
まあ、何かを撮影するために行くのではなく、
何かを聞きに行くのだから、と。
* *
修道院の中庭を横切って、演奏会場へと足を進めて行く。
どこだろう?
何らの案内も標識も出ていない。
感覚的にこちらの方だろう、とずんずんと進んで行く。
雨が降っているので、濡れたくはないという急ぎ足の思いもある。
と、
中庭まで乗り込んで来て、われわれの脇を割り込むかのように
通り過ぎて行こうとする一台の真っ赤な乗用車。
運転手の女性が顔を出して我々の方に向かって、「あちらの方ですよ」と教えてくれる。
我々が演奏会に来たことが分かったらしい。
分かるものらしい。
我々がその入り口の前に到着すると同時に自動車もその前の広くなった所に駐車。
車のドアーが開き、その女性がすっと出て来る。
黒いハイヒール、黒いストッキング、黒いタイトスカート、黒いワンピース。
金髪。すらっとしたスタイル。
ハイヒールは石音を立てながら、彼女は会場の方へと素晴らしい姿勢で歩いて行く。
その姿に見惚れてしまった。
我々もそれなりに正装してやって来た。
わたしはネクタイを締め、夏用のジャケットを羽織って、靴も綺麗に磨いて来た。
* *
我々にとっては始めてのこと、事情も良くわからず、
早く行かないと良い席が取れないからということでやって来てみれば、
誰も来ていないようだ。
チケット販売の女性が既に一人、
臨時に設置した机の前に立ったままで販売の準備万端といった風であった。
わたしは我々二人分を支払った。
われわれ二人は一番乗りであった。
確かに我々の他にはまだ誰も来ていなかった。
会場のドアー、どっしりとした木造の、3メートルほどの高さもあろうか、
観音開き、それが半ば開いていて、通路からも中の様子がちょっとだけ見えた。
ドアーがちょっとだけ開いた隙間をすり抜けるかのようにして中へと入って見ると、
楽譜スタンドを遠巻きに囲むかのように椅子が半円状に3、4列並べられていた。
今晩の演奏者がスタンドの前に立って演奏をするのだろう。
楽譜スタンドには小さなランプが取り付けられ、ダイダイの光を放っていた。
一列目はスポンサーたちの予約席として5席ほど確保されてしまっていた。
我々二人は2列目、そのスタンドの真向かい、正面の席を確保した。
最良、最高の席だ、と思う。
やはり30分も早くやってきただけの甲斐はあった。
まだ開演までの時間も充分にあるということで、誰もいない会場内を一人で視察。
窓の遥か下を見ると、グリーンの芝生に埋まったサッカー場がある。
修道院の中にサッカー場?
修道院の住人たちもサッカーをするの?
サッカー場のさらに先の方にはプールも見える。
水浴びもするの?
修道僧たちはお祈りばっかりの毎日というわけでもないのかも、
退屈しないようにちゃんと配慮されているのだろう、
窓からの風景を目にしながら勝手に思っていた。
ウィーンに
ウィーン少年合唱団があるように、
この修道院には
ザンクトフローリアン少年合唱団があって、
修道院の中で寄宿生活を送っている。
こうした少年たちのための運動施設でもあるのかも、
と勝手に思っていた。
◆天使の歌声 ~ザ・ベスト・オブ・ウィーン少年合唱団 自分の席に腰掛けた。
正面の壁には大きな絵画、周りの壁、
首を真上に曲げると天井にも大壁画や天井画。
目がくらくらするほどに天井が高い。
見上げる私の方へとふわっと舞降りて来るかのような感覚・印象を受けた。
ああ、やっぱりデジカメを持って来れば良かったのに、とちょっと悔やんだ。
自分の席に座っていると、午後7時の開演時刻が迫っているので、
正面、右側のドアーからは今晩の聴衆者たちが次々と入ってくる。
わたしはどんな人たちが今晩やって来るのかと興味津々、関心を持って眺めている。
皆さん、それなりに着飾っている。
普段着では来れないのだ。
夫婦で、子供連れで、家族全員で、皆クラシック音楽を愛好する西洋の人たちだ、
地元、近所からやって来られたのだろう。
演奏会開始予定の午後7時は既に過ぎている。
相変わらず聴衆が次々と入って来る。
準備された席が足りないということで予備の席が運び込まれてくる。
* *
東洋人風の男女がドアー口に現われたときにはちょっと驚いた。
こんな所にやって来る東洋人(日本人)はわたし一人だけだろうと思っていた。
その二人は我々と同じ列、
我が奥さんはわたしの右に座っていたが、
我が奥さんの右の席を占めた。
建物の外で見掛けた、真っ赤な車を自分で運転して来た、黒ずくめの金髪女性は、
今晩のMCであった。
予想していた数以上の人たちが今晩は訪れたらしい。
その金髪女性による歓迎の挨拶があった。
自信満々の声。
威風堂々。
そして、今晩の演奏者が左側のドアーから現われた。
楽譜スタンドの横に身を移し、聴衆者たちに向かい合うように直立。
深々と体躯を曲げた。
今晩の演奏者はリンツ出身のバイオリン奏者、
黒い革靴、黒いズボン、黒いワイシャツ、
裾はズボンの中にはなく、上張りのように着こなしている、
そしてそのシャツで覆われた腹部は妊娠8ヶ月のごとく、
太い腕、黒い長い髪は馬の尻尾の如く後ろで束ねている。
奥さんはロシア人で、現在はイタリアに留学中とのこと。
この方は日本にも演奏旅行に行ったことがあるとのこと。
日本では日本の演奏家たちとも知り合いになり、
今月末頃にはこの場所、我々が今腰掛けているこの場所で
日本の演奏家たちがやってきて演奏予定との宣伝もあった。
壁にはいつの間にか間接照明のライトが照っていた。
窓の外は真っ暗。
何曲かの演奏が終わって、休憩となった。
イタリアからワインを持って来ましたので、御賞味ください、
ということで聴衆たちは右側の出入口から出て、通路を通って、
左側の別の通路で振舞われていたワイングラスを手にしている。
わたしは喉が渇いていただけなのでミネラル水を手にした。
わが奥さんが遅れて休憩の場所に私と合流した。
東洋人二人に話し掛けた、と。
日本から直接やってきたとのこと。
お二人も遅れてやってきて、我々は初対面ながら、お互いに言葉を交わした。
我が奥さんはその男性からCDを頂いた、と私に見せてくれた。
クラシックの、トリオ、クワルテット、Haydn、Bachの何曲かのタイトルが読める。
演奏を録音したものらしい。
2007年、千葉で録音と記されている。
録音したものを直ぐにオーストリアに持ってこられたかのようだ。
我が奥さんに贈呈するために、ということだったのだろうか。
まるでそのようだとも言えないこともない。
「日本からやってこられたのですか?」
「そう」
「ここでコンサートがあるということがどうして分かったのですか?」
「インターネットで見ました」
「ドイツ語分かるのですか?」
「なんとなく感で分かりましたよ」
「この演奏会のために日本からわざわざ直接やってこられたのですか!?」
「ええ」
「このためのみに日本から直行ですか!? すごい!」
我々二人はオーストリアの、近くの町に住んでいて、
ちょっと聴きに行ってみるかというような気楽な感覚でやってきたのに、
このお二人は遠い日本から飛んで来て、もちろん飛行機に乗って、
この日の一時間余りのコンサートに参加するという意気込み、その気合。
我が奥さんに教えてもらったので、ついでに話題にした。
「チェロを弾くのですか?」
「ええ」
「すごいですね、私なんか何も弾けませんよ。弾けるとしたら口笛くらいですよ」
インタビューを受けませんか、
とマイクを持ったオーストリアの女性が日本からの男性に話しかけ、
別室へと招かれて行った。
しばらくしたら戻ってきた。
「何を話したのですか」
「演奏の感想を聞かれたので、素直に感じたことをしゃべりました」
「すごい! オーストリアのテレビで放映され、有名になりますよ」
日本からのお二人はとても控えめ。
若い演奏家らしい。ヨーロッパに休暇で来たらしい。
明日はイタリアへと行く予定とのこと。
頂いたCDをみると Tai という名前だ。
「今晩の演奏者もそうなのでしょうね、
楽器が弾けるようになるためには子供のころから練習練習、
練習の積み重ね、訓練を受けていないとだめなのですよね?
楽器を巧みに弾く人を見ると驚嘆の思いになってしまいますよ。
私などはぜんぜん弾けませんからね。先日、キーボードを買ってですね、
自分でも弾けるようになりたいという願望は大いに持っているのですが、
大人になってからはちょっと無理ですかね」
* *
休憩が終わり、皆自分の席へと戻った。
プログラム最後の、Johann Sebastian Bach の Partia III E
が何曲か続き、約1時間強のプログラムは終わった。
独演者は規律正しく両足を閉じ、頭を下げた。
そして左側の3メートル高のドアーを押し開け、中へと消えた。
ドアの背後に誰かが控えているのだろうか。
タイミング良くドアを引いて演奏者が中へと姿を消すようにしてあげているのかも。
拍手が鳴り止まない。
奏者はドアーからまた姿を現し、
アンコール曲をすでに用意してあったらしく、拍手に応えて演奏開始。
演奏が終わると、また聴衆は一斉に拍手。
左側のドアーの裏側、向こう側へと演奏者は姿を消した。
ドアーの向こう側へと姿を消して、そこで何をしているのだろう?
そこは控え室にでもなっているのだろうか、
「ドアーの向こうでは何をしているのかな? 深呼吸でもしているのかな?」
わが奥さんに聞いて見た。
「分からないわよ」
「トイレにでも急いで行っているとか」
「分からないわよ」
「後で聞いて見ようか」
「よしなさいよ」
オーケストラの指揮者が演奏を終えた後に、姿を消す。
会場では拍手が鳴り止まない。
指揮者が戻って来て、観衆に頭を下げている。
そしてまた姿を消す。
同じようなことがここでも起こっている。
行ったり来たりすることがクラシックの演奏会では慣わしになっているだろうか、
勝手に思っている。
さて、会場での拍手は鳴り止まない。
奏者がまた戻ってきた。
頭を深々と下げた。
そして、またもドアーの向こうへと消えた。
拍手は続く。
暫くしてドアーからはまた奏者が姿を見せ、
規律正しく立ってまま頭をまたも深々と下げた。
拍手は一層大きく鳴り響く。
奏者はまたも左側ドアーの向こうへと姿を消した。
行ったり来たりが何度も続くかのようだ。
ドアーの向こうへと姿を消して、一体そこで何をしているのだろう?
気になる。
拍手がはやく鳴り止まないかとドアーの背後で聞き耳でも立てているのだろうか。
とても気になる。
また戻ってきた。
もうこのぐらいでよろしいです、といった風に合図をする。
拍手の鳴りはようやくおさまった。
行ったり出てきたり、また行ったり出てきたり、
演奏だけでなくこれだって疲れるだろうに。
* *
今晩の個人コンサート、バイオリンの独奏会は成功裏に終了した。
演奏者のご本人はそう思っていることだろう。
プログラムの表紙を見たら、
Fiori Musicali
Musik und Ambiente 2007
Sommerrefektorium des Stiftes St. Florian と記されている。
Refektorium とは何ぞや、と手元の辞書で調べてみたら、
修道院、神学校の、食堂と出ていた。
我々がバイオリンの演奏を聞いた場所は、
このザンクトフローリアン修道院の、修道僧たちの、夏用の食堂!?
修道僧たちの食堂でのバイオリニストの独奏を体験したのであった。
(15052007)
世界遺産 オーストリア編世界遺産 ドイツ編