キーボード

キーボードを買ってしまった。とうとう買ってしまった。子供たちのために、と思って買ってしまった。今年のクリスマスプレゼントにでもしようかとも思ったが、待てない。買ってしまった。

キーボードといっても、コンピューターの周辺機器の一つのことではない。音楽を奏でることができる、鍵盤だ。電子機器だ。

オーストリアの人たちはだれもが音楽家のように思えてしまったときがあった。楽器を自由自在に弾いているひとたちを羨望の目で見ていた。自分にだって弾けるだろうといった大いなる錯覚に陥って、とうとう買ってしまった。

子供たちだって、言って見れば、ちょっと高度な別のおもちゃだ。と思いきや、あまり関心を示さない。音楽を奏でるキーボードよりもコンピュータゲームが楽しめるキーボードの方に愛着があるのだ。

わたし、オトナ用のおもちゃになるのか。とは言うものの、コンピューター用のキーボードとは違って、音符記号を読みながら、どの鍵盤を押したらよいのか、どのように押したら良いのか、マニュアルを読みながら、サンプル音楽を聴きながら、キーボードの上に指を泳がしているが、サンプルどおりの立派な音楽はまだ生まれない。

老化防止のキーボードと言われる。コンピュータのそれを言っているのだろうが、こちらのキーボードも捨てたものではない、ただし、満足の行くように音楽が弾ければ、だ。いつになったらひけるようになるだろう。楽しみといえば楽しみ、でも時間が掛かるということが分かった。錯覚は錯覚であった。練習に練習を積み重ねること、頭の中では分かっているが、指の方がうろうろしている段階だ。まあ、ゆっくりと構えてゆこう。Danke.




インターネット接続の月料金

インターネット接続に使っている、オーストリアのプロバイダー、カストマー担当から電話が入った。

毎月の使用ボリュームを 2GB ということで契約してあったのだが、

7月の使用量が 3  GB
8月の使用量が 4.5GB

担当者の女性が使用量を教えてくれたのだが、
とっても驚いているのだ。教えてもらってから驚いているのはわたしだった。

そんなに使用したのか!?


2GBの指定使用量を超えての使用はMB当たり幾らと決められていて、超過量に対する加算がある。2GBまでは固定料金となっているのが、超えるといわば変動料金が加重される。

7月、8月の異常なる使用量にびっくりした担当者は、わたしはその事実を緊急に知らせなければならないと感じたのだろう。

知らないでいたら、使用量だけでなく、使用料の方もどんどんとうなぎのぼりとなってしまうのだから。お客様にとっては負担がそれだけ増すのだから。

月決めの固定料金の2倍、3倍と支払わなければならないなどと誰が予想しただろうか!? 

そんなことを予想して固定使用量2GBに決めたのではなかった。

いままでのも1GB前後しか毎月使ったことがなかったので、プロバイダーからの価格提案として2GBなら十分だろうということで2GBの契約をしてきたのだった。

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ビューティフル・マインド

A Beautiful Mind
ビューティフル・マインド

昨晩、オーストリアのテレビ局ORFで米国映画を放映していた。話に聞いていた、でも実際に見たことがなかったものが幸運にも見れた。もちろん、喋られていた言語は英語ではなく、ドイツ語に吹きかえられていた。

普通、テレビ番組表などを見ながら、何か面白いことでもやっていないものかとページを繰ったりすることもなかったのだが、何か頭の片隅に、タイトルが記憶に残っていたらしい。

A Beautiful Mind であって、 A Beautiful Heart ではない。

男性に対するタイトルかな、と思った。主人公は数学者、大学で数学を学び、そのずば抜けた数学の才能が買われて当時(第二次大戦後)の米国政府から共産主義対策の一環として秘密の使命を担わされたらしい。

いわゆる”精神分裂症”に罹って(いる?)&いた(?)らしい主人公の苦闘ぶりが表現されていた。



英国滞在中、あるお宅、アパートを訪ねた時のことが思い出された。同じ屋根の下に住みながらもご主人とは別居同然のような暮らし方をしていた、お互いに白髪の英国人夫婦。とてもインテリな二人。

訪問の度に御夫人一人だけの時もあったし、ご主人だけ一人でいるときもあって、夫婦一緒になっているときに会うと言うこと一度もなかった。

会えば、世間話をしたり、今は既に立派に成長している子供、一人は科学者として優れた論文をブリタニカにも執筆していると息子のことを誇っていた御夫人。

ご主人は今、戯曲を書いているのだと原稿を見せてくれたことがある。夫婦ともども知能がとっても高い。

ご夫婦には実は娘さんも一人いた。この娘さんは時々母親の所に訪れるらしく、たまたま娘さんが訪れている時にお宅を訪問したこともあった。


この娘さんが映画の中の主人公のように精神分裂症に罹っているのだと老婦人が教えてくれた。滞在中にも発作が起こり、その得たいの知れない喚き振りにびっくり仰天してしまったことがあった。

お母さんが娘さんを静めように必死に対応している様子を目の前で目撃して、ちょっとショックを受けたことがあった。

発作が収まるとまったく静かになってしまう。直してあげられないものなのか、とわたしなりに思った。


精神分裂症と書いたが、日本ではそう呼ばないようになったとか、二度三度聞いたことがありますが、ドイツ語でSchizophrenieですね。手元のドイツ語辞書(1980年発行のコンサイス独和辞典第5版)にも精神分裂症と記されている。

別にわたしの心の中にはその人を差別するといった Mind 気持ちはありませんが、そういうことらしいですね。

ドイツ語の Schizophrenie は差別語だから別の語に代えましょうなどという話は聞いたことがありません。


まだ見たことがない人はお勧めの映画です。

A Beautiful Mind

最後にはノーベル賞を受賞しましたね。そんな展開になるとは全然予想していませんでしたので、感動的な驚きでした。Danke.


ヨーロッパ中、暑っ過ぎ!

Hilfe! 暑っ過ぎ! ヨーロッパは燃えている

我らオーストリア人は文句タラタラ、暑い暑い、と。摂氏44度であったら何をするというのか?
           
マドリッド、リスボン発―― ”我々(オーストリア)の”31度は多くの者にとっては既に暑過ぎる。スペインそしてポルトガルでは目下、我々のところよりも所によっては13度も暖かいのであるぞよ。(それでも文句あるのか!?)と今日の新聞記事でヨーロッパ中が暑い、暑いと報じている。


日本の蒸し暑さから”脱出”出来たこの筆者ですが、ヨーロッパにやってきても暑いものは暑い。

暑いといっても”蒸し”は付くことがほとんどないのだが、窓は開け放してあるから、虫がこの日本人の敏感な肌に食い付くが多々。蒸し暑い不快さの代わりに与えられた不快さということか。

    

先週は確かに暑いと感じた。
特に夜になっても温度は下がらない。昼間の太陽が家屋、屋根、壁を熱く照らして、その暖かさが家の中、部屋の中にも淀んでいた。

   
暑くて寝れないから、どうするのか?
寝室の窓はもちろん、開けてある。
寝入ろうとしますが、ベッドの上では寝返りを何度も重ねている。エアコン? そんなものはない。


暑くて寝れないから、お隣さんはどうするのか?
テラスに出てローソクの光の中で近所のご夫婦を呼んで
お互いに、オンザロックを飲みながら、駄弁っていた、談笑しあっていた。
氷がグラスに触れてチャりんチャりん、涼しさを感じているお隣さんたちだったのでしょうか。


我が家ではもう寝ていたい時間帯。寝床に臥していた。
午後の10時ごろから、真夜中に午前1時過ぎを過ぎても、語り合っている。

時に笑い声が夜空の下、ご近所さまへと鳴り響いてくる。窓を開けた寝室の中へと。

暑いから、寝れないから、そうしているのだろうが、それが2晩も続いた。今日こそは寝れるだろうと寝床についていたら、お隣さんからは昨日同様の談笑声がこの耳元に届いて、それがまた寝入れない、暑い、という思いを激化させる。

お隣さんはお隣さんもいるということを忘れてしまっているかのように喋りあっている。

我が家のベッドの上では沈黙の我慢。
明日文句を言いに行ってやろうと聞こえないように思っている。



暑さを年がら年中体験している土地にいるわけでなく、一年間に何十日と数えられるほどの暑い日が巡ってきても、寒かったり暑かったりで、暑いと暑いと文句タラタラ。不快な気温下にあると、人間はどうしても自己中心的になってしまうのかもしれない。自分だけが暑いと思ってしまっている。そしてその暑さから逃れようとしている。じっと我慢している人もいるが。

暑ければ暑いと文句を言う人言わない人、寒ければ寒いと文句を言う人言わない人、人間なんて勝手なもの。どうして急に暑くなったのか、気候の変化の所為だ、と。気候の変化をもたらしたのは誰の所為か、というと人間の所為だ、という。これを自業自得というのでしょう。Danke.



 

「オーストリアンななくとしゅねっけん」に遭遇

 6月に入っているオーストリア。
 いや、世界中が6月ももう後半に入っている。

 オーストリアの6月、梅雨はない。
 でも雨は降る。
 雨が降って喜ぶのは勿論、農家の人たちだ。
 農作物が順調に成長して行くに適当なお湿りが必要だから。
 イベリア半島のスペインやポルトガルの一部では日照りが強烈に続き、山火事が発生した。


 朝のラジオニュースでは、
 ドイツ語で astronomischer Sommer 天文学的に夏に入った、
 と言っていた。
 暦の上での夏、とは良く聞いていたが、別の夏らしい。

 今年の、ヨーロッパの夏は昨年以上に暑くなることが予想される。
 ヨーロッパは南部へと休暇に出掛けて行く車、車、車、車で
 途轍もなくな長~い渋滞が例年のごとく予想される。

 長い、と言えば、こんなに長いものは(日本では)見たことがなかった。
 いや、今となっては長いこと忘れていたと言った方が正確か。

       
      *   *

 今の時期、オーストリアでは、我が家の前には小さな芝生
 (といっても勝手に雑草が生えたようなもの)
 そしてお隣さんとの境界線沿いにも”芝生”(芝刈り機で刈って背丈をほぼ均等にしたもの、
 そんな中にたくさんの ”葉巻タバコ”に似た生物がが隠れて何かをやっているのでしょうかねえ。
 そう、外観はまるで”生きた ”葉巻タバコ”のように見えないこともない。
  

 オーストリアは午後9時になっても”明るい”。
 午前中に降った雨、水分に刺激を受けたのか、
 いつの間にか、たくさんの”生きた”+”葉巻タバコ”がそんなにも繁殖し活動を開始していたのか。 

             
 我が家の後ろには猫の額ほどの家庭菜園を我が奥さんは作ってあるのだが、
 種を買ってきて植え、ようやく緑色のサラダ菜が成長してきて、
 早く大きくなれ、大きくなれと
 毎日、夕方には散水して翌日の日照に備えているのだが、
 サラダ菜が列をなしてみるみると成長してきているのが分かって嬉しいし、
 採集して食卓に並ぶのが楽しみなのだが。


 いつものように部屋に閉じこもって、コンピュータ画面とにらめっこをしていたら、
 急に窓の外、大声で私を呼んでいる。

 「ねえ、ちょっと来て! ちょっと外へ来てよ!」

 声は興奮気味。何が起こったのか? 

 怪我でもして助けを呼んでいるのか?

 私は家の外へとゆっくりと急いで駆け足で飛び出す。

 「何だ、何が起こった?」

 「古新聞持って来てっ!」

 「何~んだ、そんなことか!? こっちだって忙しいんだ」

 「いいから、持って来てよ」

 古新聞を持って再び、ドアの外へと出た。

 

 古新聞を地面の上に広げて、どこからそんなに集めてきたのだろう?

 「何だ、それ?」

 「ナクトシュネッケン」

 「シュネッケン?」 

 カタツムリのことか、、、
 わたしは心の中で シュネッケ というドイツ語単語の意味を確認していた。

 「カタツムリなら殻を背負っている筈ではなかったのかな?」

 「だから”ナクト”シュネッケというのよ」

 ナクトとはドイツ語で裸、
 そうか、殻が無いから裸、ナクトということでナクトシュネッケンというのか、
 と自分なりに納得した。
 直訳すれば、「裸のカタツムリ」か。

 

           
      *  *

 ラジオ放送を聞いていたら、あるオーストリア人が料理本を出した、
 ということでインタヴューを受けていた。

 本の題名は Schneckenkochbuch というのだそうだ。
 シュネッケンは食べられるのですよ、イタリアではピッツァの上に乗せて、
 フランス、スペインでも料理して食べる、
 オーストリアでは砂糖を付けて食べるのですよ、
 ハハハハッと笑いながら説明していた。

 何言ってんだい、そんなこと知ってら、オレだって食べたことはあるよ、
 というか食べようとしたが真っ黒の焦げてしまったので、食べようにも食べられなかったが。
 北海道は知床でのことだった。

 何故か終始笑いながら説明している、
 著者自身、ちょっと変な食材を題材にした本を書いてしまったことに対する
 照れ隠しのように聞こえないこともなかった。
 あんな”葉巻”、本当に食べるのか? 本当に?
 想像を絶する! 
 
 
 
        *   *
 
 先週の日曜日、夕食後、外に出て、芝生の上をちょっと歩いてみると、

 いる!

 いる! 

 というか、たまたま発見。

 我が奥さん、全て退治したかと思っていたのだが、
 またもどこからか降って湧いてきたかのようにいるのだ。

 予想していなかった、だから驚愕に近かった。
 自分の家の庭、小さな菜園でお目にかかるとは!

 発見してしまった故に、周辺を詳細に調べてみると、
 いるわ、いるわ、たくさん、いるわ、いるわ、
 そこかしこに
 大量に集っているのを見ると気味が悪い。
 


 オーストリアにやって来て、お目にかかったのは今回が初めてではなかった。
 毎夏、子供達の夏休みの期間中、100年以上も歴史のあるという、
 我が奥さんのお母さん、お母さんのお姉さん、
 お母さんとお姉さんのお父さんお母さんが住んでいたという家、
 ニーダーオストリア州にある、お父さんお母さんの手作りの家とのことだが、
 その家を訪れて一、二週間休暇を過ごす。

 周囲は小高い丘のような山に囲まれた場所で、
 夕食後、就寝前の一時、アスファルトの坂道をゆっくりと、
 木々でトンネルのようになったところを歩いて行く。
 高い所から地域全体が鳥瞰出来る。

 山林の中、アスファルトの道路を登ってゆくと、
 足元そこら辺に、あっ、あそこにも、
 あれっ、ここにも、
 あれれっ、いやあぁ、たくさん! 見出されるのだった。

 初めて見た時、背筋にゾクゾクと電流が流れた。
 日本では一度も見たこともないものを経験した、体感した。

 犬の糞と間違えそうになることもあるが、
 湿っていて、つやがあるとでもいうのか、生きているのだ。
 靴先とちょこっと突っつくとクルクルと丸くなってしまうこともある。
 何だろう、こんなものみたことがない。 


 しかし、しかし、しかし、我が家の庭という余りにも身近なところで再会するとは! 
 想像だにしていなかった。

 その生物は芝生、草の間に隠れて何をしているのか? 

 雑草を食っている? 

 喰い捲くっている?

 雑草ではなく我が食卓の上の野菜、サラダとなるものを食いまくったいる。
 当の人間の許可も得ずに勝手に食っているのが発覚したのだ。
 そう、人間さまの許可も得ずに食い漁っているのが憎らしい。
 頭に来る。
 そう、忌々しい害虫なのだ。

 家庭菜園、早く芽が出て来て、葉が大きくなって収穫出来るのを待っていたのに。

 

 「ねえ、聞いてよ。一つのサラダ菜の裏に5匹! 五匹もよ!」

 密かに隠れて食事をしていた、ということなのだ。
 わたしが精魂込めて栽培していたものに断りもなく、、、
 その生物に対する恨みでもあるか? 
 いいえ、でも何故か、許せない!

 その驚きようはよく分かる。
 5匹が集団でサラダ菜を黙々と襲撃しているのだ。
 その食欲ぶりは驚き桃の木山椒の木! 
 生々しい。ヌメヌメしい。

 
 
 ドイツ語で、Nacktschnecken。
 手元の辞書を引いたみたら、ナメクジ、と出ている。

 オーストリア製のカタツムリのことか!?
 細めの”生きた”葉巻タバコ

 殻のないカタツムリをナメクジというだろうか?



 「あっ、そういえば、テレビで、確か水曜日の夜だったと思う。
 そのことについて取り上げるクイズショー番組があるよ」

 「そう?」

 「どうしたら防げるのか、といったことをテーマに取り上げるのじゃないかな」

 「じゃ、見てみようかしら」

 

 その日の晩、ソファにふんぞり返るように篤と拝見、教えて貰おうと期待を以って見た。
 ドイツの、ショービジネス界の有名人二人が回答者となって、
 クイズの答え当てるということだ。
 そして回答には実験して見せてくれる。
 回答例が3つあって、正解を当てるというもの。
 

 クイズ問題:このナクトシュネッケンから野菜を守るためにはどうするか?

 一、野菜の周囲に砂を高く盛るようにする。つまり、近寄り難くする(?)

 二、野菜の周囲に割れた尖ったガラスで囲いを作る。

 三、野菜の周囲に銅のフォイルを置いておく。

 

 正解は、三であった。
 当該の虫は銅に対しては本能的に身に毒だということで避けて通るらしい。
 つまり、野菜に近づけない。


 期待を持って見ていたが、その正解はいわば消極的な防御法とでも言えるもの。
 我が奥さんにも勧められる防御法とは思われたが、思いを込めて栽培し、成長を見守っていたのに、
 そんな思いを踏み躙り食い千切っている、そんな”害虫”に罰を加えるが如く、
 お灸を据えるが如く、
 何匹(本)も探し出してきては古新聞紙の上に、
 掻き集めて、何をしたかというと、スコップの鋭い刃先で一本づつ半本づつに千切って、
 それが終わった後は、新聞紙を畳んで、生ゴミとしてポイ捨てしまった。

 

 「ねえ、何匹(本?)、いたと思う?」

 「分からない。想像がつかない」

 「50、50よ!」

 仔細に数え上げたらしい。生きた”葉巻”が50本。

 「ということは100にしたということか!?」

 わたしは口に出さず、頭の中で簡単すぎる暗算をしていた。
 半殺しにしている現場に居合わせて仔細に確認したわけではなかった。
 それとなく想像した。

 「まったく!」と我が奥さん。 
  
 「全く!」わたしも同調。

 

 ヨーロッパ各国ではあの著者が語っていたように、
 この茶色の細長いモノを料理して本当に食べるのか!? 
 わたしは絶対に食べたくはないし、食べたいとも絶対に思わない。
 (21062006)

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ハリケーン「カトリーナ」の中で生き延びる人とは

広範囲に渡って昨日も飲料水や食料品といった非常時の物資が届かなかった。それゆえ生き延びて行くためには略奪することが唯一のチャンスとなり得ようというもの。

ハリケーン「カトリーナ」が去った後、ニューヨーク出身の教育者であるウッドさんとオシアさんには食糧が尽きてしまった。ニューオリンズで休暇を過ごしていたところ被災したお二人、普段ならば法律を守るのだが、今は破壊の激しいホテルの中、違法にも物を取ることしか方法がなかった。

「わたしたちにはもう食べ物も飲める水もなく、何かをしなければなりませんでした。わたしたちはスーパーの壊れたガラス窓から中に入ってスープ、お菓子、豆乳そして水を持ち出しましたよ」

当地オーストリア地元の新聞記事から

生き延びるためにも略奪せざるを得なかった、と。





オーストリアでの離婚率、上昇中

以下のような統計が新聞報道として発表されていた。あくまでもオーストリアでの話し。オーストリアの状況が他の国での状況に符合するものかどうかは知りません。尤も、アメリカでも半数は離婚に至る、ということを以前、聞いた覚えがあります。以下はわたしが個人的に訳した記事です。

今日成立した結婚のほぼ半数は離婚となるだろう。2004年の離婚率はちょうど48.1パーセントであった、と「オーストリア統計局」は月曜日(2005年7月4日)報じた。すわなち歴史的な新記録、または記録的な新水準に達したことになる。第一位にはウィーン市が占め、60.1パーセント。結婚状態が一番長く続いているのはケルンテン州のご夫婦たち。結婚から離婚に到るまでの期間は9.5年である。(2003年当時は、9.9年だった)

昨年の2004年、当該の裁判所(家庭裁判所)によると19,590組の夫婦が法的に離婚している。これは2003年と比較してみると、524組つまり2.7パーセント増である。この2004年の確率がそのまま不変とした場合、現在成立した結婚100組のうち46組は遅かれ早かれ裁判官の面前で終了することになる。今までの最高離婚率は2001年の46パーセントであった。

ほぼ10に9の離婚には両当事者に対する審問が続いた。ウイーン同様、ニーダーオーストリア州でも離婚率は46.8パーセントということでオーストリア全国の平均を上まった。詳細は以下の通り。

Vorarlberg フォアアルベルク州、43パーセント

Steiermark シュタイアマルク州、42.2パーセント

Salzburg ザルツブルク州、41.7パーセント

Oberösterreich オーバーオーストリア州、40.2パーセント

Burgenland ブルゲンラント州、39.4パーセント

Tirol チロル州、36.7パーセント

Kärnten ケルンテン州、36.5パーセント

結婚一年以内に離婚に至る率は2.1パーセント。8.3パーセントは2年に満ちないで離婚。1994年にあっては離婚13組に一組の割合で、25年間結婚が続いた。

2004年にあっては10組に一組は銀婚式が終わった後、離婚担当裁判官の面前にやってきた。しかも金婚式が終わった後、離婚になったのが13組もあった。

オーストリアでの離婚者の平均年齢は男性の場合、41.4才、女性の場合、38.7才。男女とも(10年前の)1994年度よりもほぼ3才上回った。

壊れてしまった全結婚の39.3パーセントは子供がいなかった。そうでありながら2004年の離婚事例にあっては
15,807人の未成年者が拘わっていた。
APA (Montag, 4. Juli 2005)



日本製プリンターのストライキ

プリンターがストライキを起こしてしまった。日本製のプリンター、どうして手元にあるかというと、日本から新品をわざわざ持ち運んで来たものだ。引越し荷物の一つであった。オーストリアにやって来ては、殆ど毎日の如く使用していた。

そう、プリントアウトしてくれない。インクがなくなったのか、と新しいインクに取り替えても、駄目。プリントアウトしてくれない。インクが出てくるところの接触面がいかれてしまったのか、と高価な部品に取り替えたが、それでもプリントアウトしてくれない。

これはどうしたことか、と色々と自分でストライキの原因を考えてみた、インクがなくなったのだろう、接触面がダメになってしまったのだろう、といったことしか浮かばない。

マニュアルを見ても、原因となることは書いてない。最終的にはメーカーに修理に出してください、といってもここは日本じゃない、海外だ。

日本のお店で買った時、店員が海外に持って行くのだったら、歌詞外での修理は出来ませんよ、いいのですか、とわたしに念を押していたことが思い出された。海外で故障することなどありえないだろうと楽観していた。優秀な日本製品にはわたしも信頼しているので、そう簡単に故障するようなことはありえないだろう、と思っていた。

何年経ったか、使いすぎたのか>、プリンターが昨日、じゃなくて今日、機能しなくなってしまった。Danke.




左足の親指、甲が、大いに痛く腫れ上がった

既に一週間前ごろから、左足の甲が異状に膨れ上がって来て、何が起こったのか、不思議に思っていた。

まあ、直ぐに元通りになるだろうと楽観、静観していたが、この脹れ、全然引かない。

医者に行って、診てもらうということは考えていなかった。
というよりも、自分の内に備わっているといういわゆる”自然治癒力”を信じていた。

充血していると取って、夜、就寝中は左足だけは布団の外へと出し、
少し高くして、血が心臓へと戻ってゆくことを期待しながら、寝ようとした。
肉体的に疲れて寝入ってしまうのだが、
就寝中にも、痛みが戻って来たのか、痛みの方は寝ている暇もないということなのか、
ズキンズキンとその痛みは主張する。

朝、起きれば、足の甲の状態を手で摩りながら、症状が緩和されたかと希望的な視点で、
視線を投げかけるが、どうも脹れは脹れっぱなしで痛みも痛みっぱなしで全然改善が見られない。
これでは心も晴れ晴れしない。

まともに歩けなくなってしまった。
まるで左足甲に自転車ポンプでエアーを入れたが如くに膨れ上がった。
着地するたびに痛みの存在を認めざるをえない。

われは日本男児だ。我慢していれば、直るのだ、と勝手に思っていたのだが、
痛そうな表情を見た、我が奥さんは「医者に行ったら?」という。

そうだな、とわたしもとうとう医者に行って診てもらった方が、痛みも取れるかもしれない、
と認めざるを得ない、この痛み。

この痛みは我慢していれば引けると期待していたが、
希望的な観測は観測でしかなく、現実はいつまでも痛みっぱなし。

歩いては医者に行けない。
スニーカーを履こうとしても、余りにも脹れてしまって、靴の中に足を納めることが出来ない。
靴の紐を全部とっても、靴は小さすぎる、いや、足の方が大きすぎて入らない。

左足には大きめの靴下を履いて、右足は正常のサイズのスニーカーに入れて、
変な感じの、痛みここに極めりということで、自分を諦め、
わが奥さんが運転する車に乗って、医者へと連れて行ったもらった。



隣町のクリニックにやってくる。
女の先生。珍しい。オーストリアにやって来て、医者に行くと決まって男の先生。
まあ、この世には男か女しかいないから、男の先生、女の先生がいてもおかしくない。
が、女の先生と相対するのは初めてだった。

わたしの、脹れ上がった右足、じゃなくて、左足先をちょっと触って、
触診ということか、痛ててえ、直ぐに分かったらしい。
Entzuendung 炎症ですよ、と。
病名を教えてくれた。
序に薬の処方箋もくれた。
自分で薬を買って飲みなさい、ということだ。
が、聞いたこともない、その何とかという病名? 
家に帰ってきてから、我が奥さんにつづりを教えてもらった。

Erysipel

なんだろう? と手元の独和辞典で意味をしらべたら、

丹毒

と出てきた。

丹毒か、納得、したと書きたいところだが、
納得しても直ぐには痛みは消えない。
そのまま痛みを家に持って帰ってt来た。

我が人生、丹毒に見舞われたのは初めてだった。
何が原因なのか。
そこまでは聞かなかった。
痛みが引けばよい、左足が元通りのサイズに戻ればよい。
(140205)



事故の新聞記事

地元の新聞を見ていたら、我が息子の骨折事故のことが小さくニュースとなって載っていた。

こんなことがニュースとして書かれるのか。大袈裟だな、とちょっと思ったが、冬のスポーツでは似たような事故が起きる事例も多いことに鑑み、そういうことで記事となって現れたのだろうか。ヘイコプターが出動するほどの大救出作戦が展開されたからなのだろう。自分なりにニュース解説をした。

新聞に記事となって載ったことが嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気持ちだ。起こってしまったことは起こってしまったのだが、これからは何ヶ月間は歩行できない。まあ、子供のことだから回復は早いですよ、などと病院の先生は言ったが、あまりなぐさめにもならない。

自分が事故に会わないようにと気をつけていても、子供が事故に会わないようにと、一人で外へと出かけてゆくときには、祈るような気持ちになってしまう。

今日一日、何の事故に会うこともなく帰ってきた子供の姿を見て安心する。Danke.


”黄色い天使”が舞い降りてきた

本日、正月元旦、あるオーストリア人の知人家族の所に一緒に新年を祝おうということで招待を受け、山の中腹にある家までの雪道を家族全員車に乗って出掛けて行った。

家の周りは雪がたくさん積もっていて、雪遊びには持って来いの環境。子供たちは雪の坂道やら傾斜となった所でボッブスレーやら サンタクロースが乗って来るといった小型そりに乗っかって滑り落ちて歓声を上げていた。わたしも童心に帰ったように一人ではしゃいでた。

プラスチック製のボップスレに四番目の子供を乗せて、山の坂道斜面の一番高い所まで、ボブスレーにくくりつけたひもをひっぱりながら一歩一歩登って行く。雪道を一気に滑り落ちて行くスピードのスリルを子供ながら楽しむ遊び。自分で操縦することはできないので、大人のわたしが紐を引っ張りながら駆け下りて行くといった次第。

斜面、坂道の一番高い所までたどり着くと、眼下にはその日訪問した家の大きな屋根が上から押さえつけるかのように見える。家の周りは一面雪で覆われた広がりがパノラマの如く望める。そこら中、雪でうまってしまった広大な野原の中に一軒 ぽつんと建っている。その家の裏側はそのまま、森へと通じる緩やかな斜面となった野原、もちろん今は雪が降り積もっている。他の我が子たちは自分たちだけでそれぞれ思い思いに雪遊びに余念がない。


わたしと四番目の子が坂道の極みに達したとき、悲痛なる叫びがどこからともなく当たり一面に響き渡った。何だろう?誰だろう。それとも雄叫びか。

坂道を一緒に駆け滑り落ちて来て、家の前に戻ってきてみれば、「ああ、大変、大変、足を折ってしまったのよ」と我が奥さん、当惑、真っ青、迷惑そうに、厄介そうにわたしに報告。

山に木霊した叫びは我が子のそれだった。家のご主人と一緒に小型そりに乗って雪傾斜を猛スピードで滑り落ちて行く際、前の方に両足を投げ出すようにして座っていた三番目の息子、何の拍子にかその右足がそりの下に巻き込まれて脛骨が折れてしまった。
 
 

新年第一日目の、休日の楽しさも一遍に吹っ飛んでしまった。
 
医者に、病院に連れて行かなければならない。

どうやって?

それよりも怪我した子供はどうなの ?

どこにいる?

家の中よ。ソファーに仰向けよ。 骨折した箇所を固定しなければならない。

医者はいないのか? この村には?

電話、電話! 
電話番号は?

運良くもその村の医者は自宅に”待機”と判明、本人が車を飛ばしてやって来てくれた。

骨折箇所を応急的に固定させ、負傷者は病院へと速やかに連れて行かなければならない。救急車を緊急に手配した。


晴天の霹靂の如く、緊急事態が発生してしまった。
確かに救急車を頼んだらしい。が、山を降りた隣の町から山の中腹まで、我々が居る所まで山道をくねくねと登りながらドライブしなければやって来れない所だ。時間が掛かる。じりじりする。



子供の顔からは血の気が引いてしまっている。子供ながら痛みをじっと耐えているのだ。雪で沁みたズボンも上着も冷たそう。毛布を全身に掛けて保温。

乗って来たわたしたちの車で町まで降りて行くことも考えられたが、車の中、子供を安静に横たわらせることが出来るようにはなっていない。

救急車を待つしかないのだ。いつ来るのか。いくら待っていても来ないかのように思えた。救急車は道に迷っているのではないか。雪道をゆっくりと走っているのだろう。  

家の外で立ったまま車がやってくるであろう方向、上方を見遣り、じりじりしながら待っていた。曇天空の下、空気も何となく重苦しい。

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ウィーン市の決断

ウイーン市はその市庁舎内の各職場に於けるMS社の独占に対して宣戦を布告したとのこと。つまり、2005年の第2四半期以降、コンピュータが置いてある仕事場16000箇所のうち約7500箇所について、MS社のソフトウェアーWindowsを従来通り使いたいのか、それとも無料のソフトウェア(オープンソース)、例えばLinuxを使って仕事をしたいのか、該当する担当職員はどちらかに決めることになっている。  

 
ドイツのミュンヘン市に倣ってウィーン市もその規模は僅少なものではあったとしても、Linuxに鞍替えすることになる。

ミュンヘン市は一年前、全ハードウェアをLinuxに合うように組織替えしたが、ウィーン市はそうすることは必要ないだろうとウィーン市のIT責任者は言っている。だからウィーン市は部分的な転換に決定、再教育費も大幅に削減できるだろうし、最初のうちは、Linuxを使用すると言ってもコンピュータに詳しい職員に使用して貰うことになる、と。

 
オープンソースに対しては一回限りの支出として約10万ユーロが予算に組まれ、向こう5年間の経営費用としては110万ユーロが予定されている。

MS社の製品に対しては新たな費用は発生しない。ライセンス料は既に支払い済み。オープンソースのソフトウェアについてはライセンス料は発生しない。

オープンオフィス及びLinux使用については過去一年間、使用してきてみたが何ら不便なことは見出されなかったとIT責任者は言う。セキュリティについては既に何の問題もない。ウィーン市では既に数年前からオープンソースのソフトウェアをベースとするセキュリティ関連のソフトウェアを使用してきたからだ、と。

   
わたしはWindows を使用しているが、新たにLinuxを学ばなければならないコンピュータの世界なのか、とLinuxのことをはじめて聞いた時には思ってしまった。無料だ、ということに関心を惹かれながらも、今使っているものに満足してしまっている。


個人的なオリジナルデザイン切手

オーストリア郵便局の新ビジネス 新サービス?

先月から始めたそうだ。今は7月まで試験的にやっている。

あのシュワちゃんもご自分で作られたのか、作らして貰ったか、それともオーストリア国の郵便局首脳陣が率先して作ったのか、詳しく分かりませんが、シュワちゃんの切手もある。

オーストリアで自分好みの切手を作りませんか?「一般の人でもご自分の切手を作ることが出来ますよ」という触れ込みなのでしょうが、オーストリアで自分の好きな図柄、--普通は自分の肖像を図柄としている、つまりあたかも有名人と同じように切手になってデビュー出来るし、世界中の人たちに自分のことを印象づけることも出来る。デザインは実の所、自分の肖像、写真である必要はない。何でも良い。
 

普通、ある国の切手をみると、その国で功労のあった人とか有名人が切手の図柄として取り上げられることがあるが、別に有名人でなくとも、普通の人であったとしてもそうした有名人と同じように席を並べることができる。



切手の大きさ:     縦横 42x35mm

図柄の大きさ:(横長の場合)34x21mm

        (縦長の場合)27x29mm



ただし、但し、

10枚、多くても2、30枚ぐらい作れば良いかな、などと安易に思わない方が良い。

最低でも 200枚!

それが最低限の注文枚数です。200枚以上の注文でないと精算(生産?)が合わないということなのでしょう。


200枚作るとしたら、費用は幾らかかるでしょうか。

切手一枚につき0.55ユーロという値段が付いて印刷されるが、一枚のコストがそうだと言うわけには行かない。だから200枚購入、単純計算で110ユーロとはならない。これは名目的な、希望的な費用。
 

現実的な費用、手数料込み(?)で 堂々と発表されております。

346ユーロ2 0セント。

日本円に概算すると、今のレートでは、4万5千9百円也ですね。


換算は 132.57円/ユーロ×346.2=45895.78 円ということになる。


オーストリアでは誰か自分用の切手を作った人がいるのか。
実は、オーストリア当局にメールで問い合わせてみた。答えが返ってきた。4月のはじめから5月のはじめまでの一ヶ月間で 合計約20万枚の個人的な申し込みがあった、と 。一人当たり最低200枚(200枚以上注文した人もいるかもしれない)注文したとして、多くても1000人からの申し込みがあったことになる。


このサービス、お隣の国、ドイツの郵便局でもやっている。オーストリア郵便局がドイツの郵便局の真似をしたのか、それとも逆か、何かとオーストリアとドイツとは比較され、ある時は敵対関係的空気が流れたりする。先回のモーツァルトの件 が良い例だ。


ドイツのあるサイトを覗いていたら、このドイツ郵便局の切手印刷サービスについてコメントを書いている人がいた。良いアイディアだが、普通一般の一個人にとっては費用が高すぎる!と。全くその通り!


サイトのFAQのページをちょっとを読むと、ユーロ通貨はオーストリア国で発行されようと別のEU加盟国で発行されようと、EU域内ではどこの国でも通用するが、同じような考え方は切手に関しては通用しないと断っている。そんな質問をしてきた人がいたのかも、多分。当然かもしれないが、オ ーストリア国でしか通用しないと書いてある。国外向けの郵便物に貼れないということにはならないと思うがね。

ところで、日本ではどうでしょうか。日本の郵便局も同じようなこと負けじとやっていますかね。どこかの国で流行ることは自国でも流行らせたり、流行ったりする、この世界。Danke.



「欧州連合」の東方拡大

本日、5月1日、新たに EU 「欧州連合」の“Osterweiterung” 「東方拡大」つまり、10カ国の EU への加入が確定。

ヨーロッパはこれから新たに生まれ変わり、いわば「新ヨーロッパ」が出現するということだろうか?

ヨーロッパの、いわばド真ん中に居住する一人として、今後の方向性について無関心ではいられません。


その10ヶ国とは中東欧の、所謂旧共産主義諸国からの加盟と言っても過言ではない。

チェコ

エストニア

キプロス

ラトヴィア

リトアニア

ハンガリー

マルタ

ポーランド

スロヴェニア

スロヴァキア


ドイツ語で “Osterweiterung” 東方拡大、つまり旧中東欧共産主義諸国を仲間に入れてあげましょう、ということだ。





1917年のレーニンによる、ロシア革命を端緒に以降約60年間に渡って、世界中は共産主義陣営からの陰に陽にと激しい攻勢を受けて来た。東ヨーロッパ諸国はソ連共産主義の衛星国となり、中国も毛沢東による共産革命で赤化、北朝鮮は金日成、カストロに率いられたキューバを初めとして中南米諸国も共産主義運動の格好の餌食となった。アフリカの多くの国々も共産主義に侵されて行った。恰も共産主義が標榜するように、世界の共産主義革命が達成されるかの観があった。

共産主義は民主主義を標榜する西欧世界の諸国の中へも巧みに入って行った。西欧諸国の人々のうちに、特に若者たちの間に浸透して行った。

至る所に民主、共産とそれぞれの陣営の属する者たちとの間で確執が絶えなかった。特に大学は格好の舞台となり、共産主義に染まった学生たちとそれに反対する学生たちとの間でのつば競り合い。ゲバルトを使用するのは共産主義学生たちであって、キリスト教を信奉する学生たちは防衛側に回るしかない。

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オーストリア大統領選挙、2004年、迫る

オーストリアの歴史上、いや、オーストリア国でも初めての女性大統領が誕生するのか、 それとも今までどおり男性の大統領が選出されるか。

世界を見回せば、女性大統領(東南アジアのある国々、そしてヨーロッパは北欧、 フィンランドなど)が既に存在していることを知り、別に目新しいことでもない、わざわざ女性の大統領が誕生、出現するかどうなのかといったことについて強調する必要もないかとも思うが、オーストリア国にとっては大きなイベントということで、オーストリアでの事情もあるということで、書いてみる。

一国の首相が女性(例えば、インドのインディラ・ガンディー首相が記憶に残っている)であるということはそんなに珍しくもなくなってきているとしても、一国の大統領が女性であるということはこの世界ではまだ珍しい、ということからも 話題に取り上げる十分な理由にもなると言えるかも知れない。  

ヨーロッパのど真ん中にある、昔は大国だった、今は小国。オーストリア国の女性達の目から見れば、「我らが女性陣もとうとう、 いや、やっと」と言ったところだろうか。今までのどちらかと言うと相変わらずの男性支配の社会で、その最高峰である大統領職を実質的に”勝ち取れる”かも知れない。意識ある女性陣にとっては分水嶺に立たされている! と固唾を飲んでこの選挙結果を見守っているかもしれない。この日曜日だ。

もし「オーストリア国現代女性史」とでもいうものがこの国で著されるとするならば、オーストリア国の女性達にとっては、女性が初めて獲得した大きな勝利のシンボルとして将来、多くの女性有権者たちの目には映るかも知れない。「女性だって大統領になれるのだ、男ども、分かったか!?」とそんな風に息巻く女性もいるかも。  



「男か、それとも女か」といった多義的な設問。人類始祖アダムとエバの時代から今日に至るまで、二つに一つといった見方が有力的に継続して来たが、男と女との間には埋めることが出来ない溝が 横たわっているかのよう。出来ない男もいれば、出来る女もいれば、出来る男がいれば出来ない女もいるょう。

男が先か、女が先か、男と女の然るべき位置関係を巡って、侃々諤々、人類歴史上、相変わらず終わりが見えないかのような、男と女の間での”戦い”が続いている。が、 最終的に両勢力が首肯出来る確定的な結論は男と女が存在する限り出て来ないことになっているのかも。   


つい二、三日前の当地の日刊新聞の投書欄をちょっと横目に読んでみたら、読者(オーストリア女性)の主張が載っていました。「女性にも同じチャンスが与えられるべきだ」と

「既に女性大統領候補者が立っているのだから、チャンスは与えられていますよ」とわたしは投書を読みながら黙ってコメント。この女性投稿者の意図する所とは女性も大統領になって何故いけないのか、女性にも大統領をやらせろ、ということなのだろう。この機会を捉えてもっと広範囲に渡って男女同権を達成させましょう、と いうのが本音なのかも。

オーストリア国ではまだ本当の意味での男女同権ではない、ということなのか、社会での女性の活躍ぶりが雑誌等でよく取り上げられるのを見ると、まだまだだと報道しているのか、それともオーストリアの社会ではこんなにも女性が達者にやっていると教えてくれているのか、どう判断して良いものやら迷うことがあるが、とにかく、この女性投稿者が結論として述べていることは正しいことと思われる。

その人曰く「今までの男性を優位とする考え方を女性優位の考え方で置き換えようとすることは間違っていることでしょう」。 オーストリア国にも女性の立場を弁えた人はちゃんといると感心した次第だ。

女性にも同等の権利を与えよ、ということなのだ。女性にとってのチャンスは今、目の前にある、と。女性が大統領になって何故いけないのか、 女性にだって出来る、と。

”オーストリア国全女性連盟”(そんなのがあるのかどうかは調べていないが)の期待を担って、女性大統領候補者は今日も過密なスケジュールを消化しながら、オーストリア国のどこかで遊説している筈。最後のお願いです、と。  

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昨日の選挙結果

一夜明けた開票結果を概略的に記して置こう。

オーバーオストライヒ州に限って記せば、全般的に社会党の「勝利」だったと言える。緑の党も“勝利”で沸き返っているようだ。

当州に限って、今回の選挙後も国民党が第一党であることに変わりがありませんが、自由党への票が大幅に社会党と緑の党へと流れて行ったようです。従って、と言うか、自由党には大いに負けて頂きました。 


今回の大敗振りを自分勝手に想像、分析してみると、今までの自由党支持者たちも国際的に(?)目覚めてきたということになるのでしょうか。同党の、オーバーオストライヒ州党首は辞任したいと意思表示しているらしい。自由党など解散してしまった方がオーストリアのためになる、と別のオーストリア人(有権者でしょう)が少々過激なコメントをしているのをインターネット・サイトで読みました。

この国際化された、国際社会に生きる我々人間たち(この地球上に生きる我らは皆、兄弟姉妹であるべきです、と誰が言っていたのかは忘れましたが、わたしはこの理想に与する組に属します、早く現実化したいものですが、この理想を現実的に推し進めて行く立場にあるかと思います。

山々に囲まれた国、内陸の国、その中に生きる人々、その歴史から引き出された考え方に基づいて生きている人がいても別に不思議ではありませんが、グローバルな視点からものごとを捉えて行けるようになりたいものです。Danke.



オーストリアの選挙

本日、オーストリアは全国的に日曜日、チロル州とわたしが居住している、ここオーバーオーストリア州でも州の首長とそれぞれの地方都市、町、村での議会選挙日である。いや、であった、と過去形で書く方がより正確だ。

オーストリアに少しは(政治的に)関心がある方ならばご存知のことと思いますが、オーストリアの政党として目立つ、大きなものとしては、国民党(ÖVP)、社会党 (SPÖ)、自由党(FPÖ )、緑の党(Grüne )の4政党がある。そして更には共産党をはじめるとする小さな政党もたくさん存在するのでしょうが、オーストリア政局に影響力を及ぼすというほどではない。

現オーストリア政府は国民党と自由党との連立政権です。各州にあってはそれぞれの党が独自に多数投票数を得て、それぞれ各州を運営しています。たとえば、わたしが住むオーバーオストライヒ州の知事は長年、国民党がその席を占めていますが、州内市町村の首長は社会党出身者で占められている所が多いです。

チロル州の知事は社会党、南に下ってケルンテン州は唯一、自由党の元党首が知事の席を占めています。

さて、お堅い政治の話、わたしは好きではありません。オーストリアの選挙をいわば部外者、外国人という立場で眺めているしかなく、余り関心はない、と言うのがわたし自身の偽らざる本音です。

わたしはオーストリア国民に帰化して、選挙権を有しているわけもでもありませんし。わたしが住む小さな市でも選挙ということで、各党の候補者はそれなりに選挙運動をつみかさねてきたことでしょうね。

街に出てゆくと適当な所に候補者の顔がデカデカと印刷された立て看板が置かれているのをみるし、国道沿いを車で走っていると大きな広告看板が運手者の目を奪いますね。

我が市では、などと書き始めると、恰も市の関係者風に聞こえるかもしれませんし、実際そこでわたしが働いているわけでもありませんが、先月引っ越して来て、そんなに愛着があるわけでもありませんが書類上、そして地理的にもこの市の住民となったので我が市、でこの市では我が奥さん、先週、秘書にアポイントを取って、新しい市に住むようになったからと挨拶を兼ねながらも、ついでに就職の依頼もと、社会党出身の市長に直接会ってきた、とか。われらの家庭にも毎日の生活の糧を与えてくださいませ、と選挙運動ならぬ、再就職活動。


先々週の土曜日の朝、家の前の小さな庭で空からヒラヒラと落ちてくる枯葉を掻き集めていると、知らないおじさんが我が家への入り口ドアを断りもなく開け、笑顔しながらわたしのいるところまでやってきた。見たこともない人、何だろう、誰だろう、何の用だろう、と不思議がっていたら目の前にやってきてしまい、何をかを手渡してくれた。直ぐにそのまま踵を返して姿を消してしまった。

当市の議会に立候補している国民党の候補者の一人、本人であった。何故分かったかというとチラシとご自分の顔写真が載った往復絵葉書きのようなもの、そして国民党の名前が印刷された、プラスチック製のシャープペンシル(今でも日本ではシャープペンシルと言うのだろうか??)を呉れた。

各家を訪ねながら郵便ポストにチラシ、顔写真を入れながら、我が家のポストのところにも来たという所、わたしが外に出て恰も待ちうけていたようだということでわたし日本人に直接手渡してくれたということだった。それだけのこと。

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典型的な夏の、暑い日々、午後

つづき>>>

午後から“プール”に行く、と分かると子供達は狂ったが如く歓声を上げる。

「イヤッホー!」1番上が叫ぶ。

「イヤッホー!」2番目が次ぐ。

「イヤッホー!」3番目が真似する。

「イヤッホッホー!」4番目が遅れて続く。

そして、5番目。

「......!」

いや、5番目はまだだ。多分、永久にまだだろう。


わたしは付き添いに過ぎない。夏の暑い時間を過ごすのに、居場所を移動するに過ぎない。子供達が水遊びに興じている間、わたしは何をしようかなあ、と頭を集中させていたら、思考する音が大きすぎたのか、聞こえたらしい。

「ベンチに腰掛けて、本でも読んでいられるわよ」と奥さん。

それじゃ、本でも読んでいられるように、と本を一冊持って行くことにした。先月から読み始めていた、英語本の、50の短編集だ。まだ読み切れていない。この夏には読み切ってしまおうと(何故だか自分でも知らないが)決意し、そのように自分に言い聞かせて機会を捉えてはどこにいようと(例えば、トイレの中)時間が許せばせっせと読み続けていた本だ。いや、わたしにとっては一日、時間が永久に許せるほど有るのだ。


子供達はその子供用のプールが何処にあるかは知っているようだ。わたしが付き添いとして一緒についてきている事などお構いなし、どんどんと先を急いで行く。おーい、パパ(わたしのこと)を置いてきぼりにして行く積もりか!? パパが迷子になっても知らないぞ。


確かに郵便局へと行く道すがらの途中にあった。四周が生け垣で囲まれたところで、それぞれに歩道、自動車用道路がそれに沿って走っており、郵便局へ行く為に何度かその歩道を歩いていたことになるわたしではあったが、生け垣はわたしの背丈を越える程の高さであったのでわたしの視界を遮るようにその公園は守られていたといった感じでもあったのだ。

 

プールと言うからプールを予想していたら、これを人は本当にプールと言うのか。人工的に作られたものには違いないが、これはプールじゃないよ。これは子供達の水遊び用の、言ってみれば、大きな“池”とでも言うものだ。泳ぐ所ではない。泳げやしないよ。どうやって泳ぐのだ。水深30cmぐらいだ、その中に入ってキャッキャッ、パチャパチャするだけのことだ。若干高い滑り台もあるが、プールなどとは言えないよ。鯉や金魚の代わりに子供達がその中で戯れる池と思えば間違いない。確かに水が貯まっているということでプールとでも言えるのかも知れないが。

子供用の公園、遊び場といった方が正確かもしれない。水遊び場の他にそこここにベンチが配置されているし、ブランコやシーソー等も見える。

公園の周り、目を上げてみると、生け垣に沿って大きな樹木が夏の太陽を遮ったり、枝の間から、葉の間から、光が漏れてきたりしている。木陰が作られ、芝生の上には涼しさを求めて、子供達を同伴してきた母親達が芝生の上で寝転がって夏の、午後の一時を過ごしている。

上空から見ればアパートがカタカナの、コの字のように公園を囲い込むかの如く建っていて、その中庭には当の子供用公園があるといった風だ。

近所の子供達がやって来ているのだろう。大人も子供達を同伴してやってきて、そのまま子供達は勝手に水の中で遊ばせて自分達は芝生の上、木陰で日光浴やら休息を取っているのだ。

 

わたしはランニングシャツに半ズボン、オーストリアの健康サンダルを履いて、なるべくこの暑さを緩和させようとしている積もりだが、何処に座ろうかと見渡すとちょうど、一つだけ空いていた木製の長ベンチ。

何の覆いも、日陰もない。ギラギラと照り付ける太陽の真下、わざわざ暑さを求めるかのように、そんなところに腰掛けていたら、余りの熱でトーストパンのようにこんがりと焼かれてしまいそうだ。

一瞬、躊躇した。が、ええい、構うもんか、もう少し黒く日焼けした方が見た目も格好良く健康的で良いだろう、とわたしは変な理屈を持ち出してきて太陽からの誘惑に身を任せようとしていた。そのベンチに腰を降ろした。

日よけ用の帽子をかぶってはいたが、頭上に、うなじに、背中に太陽光線がもろに当る。暑さを避ける積もりでいたのが、この余りの暑さの所為か、暑さを求めて太陽の下に出るような形になってしまった。

太陽の光をいっぱいに吸い込んだベンチに腰掛けて早速、本でも読み出す。が、どうも気分が乗らない。本のページへの太陽の照り返しが、サングラスを掛けていながらもきつい。目が痛むほどだ。目を痛めながらの読書も暫くして放棄してしまった。ベンチに腰掛けて静かに読書などと洒落てはいられない。

両腕を水平に広げて、背もたれにふんぞり返るような感じで、遠く、子供達の水遊びを何とはなく見守っていた。とても暑いのを我慢してもいた。我が子供達は飽きる事もなく水遊びに興じている。



午後5時、6時と夕方になり始めてもまだ太陽は暑く照り続く、もうそろそろ家に帰る時間かな、もう我が奥様の方は充分休養が取れたかなあ、などと考えながら、腰を上げ、向こうの方にある“プール”で他の子供達に混じって相変わらず4人一緒に戯れている子供達のところまで直接やってきて、告げる。

「おーい、皆んな、帰る時間だよ」

家の中であろうが、どこであろうが、聞く耳を持っていない。聞こえない振りをしているのか。家には帰りたくはないといった風情だ。本当に耳の医者に連れて行かないと大変なことになるようだ。将来が心配になる。遊ぶ事に夢中で、親など眼中にない。目の医者にも連れて行かなければならない。そう思わざるを得ない。

わたしは諦めてまた元のベンチに戻り、元のように一人で腰掛け、時が経つのに任せている。

”プール”の周りを囲むように芝生が敷いてある。高い木も公園の柵沿いに植わっていて快適な日陰を作っているのだろうか、そんな木の下で水着姿のお母さん達が連れてきた自分の子供の着替えを手伝っている姿も見える。

もう夕飯の時間と言っても良い。いつになったら家の子供達は家に帰る積もりでいるのだろうか、と思いながら、我が子供達が相変わらず、飽きることもなく、歓声を挙げながらお互いに追い駆けっこをしているのを何となく諦めて眺めていた。と、我が視界に一人女の子の姿が入ってきた。


プリント地の水着、細身、長い金髪。芝生の上、自分で休憩するところと決めてシートを敷いて置いた、その場所に戻って来た所なのだろう。わたしがベンチに腰掛ける前から既にこの公園に一人でやって来ていて、水遊びに興じていたのだろう。そして、もうそろそろお家に帰る時間だ、と自分に言い聞かせて、着替える為に最初の場所に戻って来たのだろう。

わたしは別に何もすることもなく、ただベンチに腰掛けているだけに過ぎなかったが、別の何処か他のところを眺めると言うことでもなく、この女の子に注目し始めた。

「よく一人で来れたね」

わたしは女の子の方に向かって無言で話し掛けていた。

「ママやパパと一緒じゃないの。一人で来ることが出来たんだね。偉いねえ」

自分一人でここに来て、遊んで、時間が来たからまた一人で帰る、そんな女の子の姿がわたしの目に、心には意外に映った。

シートの上、女の子の足元にはタオルやら自分が着て来 た衣類が置いたままになっている。太陽の直射日光を受けて結構暖かくなっていることだろう。

自分一人でこの“プール”に遊びに来たということは、多分、この近所にでも住んでいる女の子なのだろう、とわたしは勝手に想像していた。背丈は我が家の一番上と同じくらい、8、9歳ぐらいの小学生か。色白のかわいい顔だ。オーストリアの女の子。長い金髪が太陽光線を反射して、眩しい。

この白日下、この女の子は帰る前の着替えはどうするのだろうか、とわたしは気にしている。わたしが座っているベンチの背、後方、公園の一角に着替え用キャビン(我が子供達4人はそこで着替えて、“プール”へと向かった)が中にある建物の方へと行くのかな、とわたしは女の子の次の行動を見るような見ないような、わたし一人の、大人の意思だけでは結論が出ない、そんな宙ぶらりんの自分を感じていたところ、女の子、足元にあったドレスを拾い上げ、身に着けていたままの水着の上に、そのまま頭からすっぽりとかぶってしまい、両手が、頭が、顔がしばらくして出てきた。少々乱れた金髪を両手で梳かすようにして整えた。
 
予想に反する行動を目の当たりにしてわたしは少々戸惑った。そして、感心した。そして我に帰った。水着は乾いていたのだろうとわたしは自分を納得させた。

わたしが座っているベンチの右側、直ぐ近くには公園の出入り口がある。素通り出来るようになっている。そこだけは生け垣が途切れている。

家に帰る支度も終え、女の子は公園から出ようと、出入り口の方へと、そのままわたしの座っている方へと歩いてくる。今、ベンチに腰掛けているわたしの前を通り過ぎようとしている。

わたしの前をそのまま通り過ぎて行くものと当然思っていたわたしであったが、わたしはそこで少々驚いた。

女の子はわたしが腰掛けている前に立ち止まり、右腕をわたしの方へと差し伸べてくる。

わたしは一瞬戸惑った。この女の子、何を? とわたしは心の中で答を求めようとした、探そうとした。

あっ、そうか、握手を求めているのだな、とわたしは即座に判断して、わたしもすかさず自分の右腕を彼女の方に差し出して、彼女と握手する。

"Auf Wiedersehen!" 「さよなら」と彼女。

わたしの目を見ながら、別れの挨拶をわたしに向かって言いながら、彼女は片膝を心持ちか曲げ腰を若干低くした。


"Auf Wiedersehen!"

間、髪を入れずわたしも応じた。

そして、女の子は出入り口を通って公園の外へと出て行った。わたしを誰だと思ったのだろう。女の子にとっては異国の大人、しかも見ず知らずの、そんなわたしの筈、そんなわたしに対して、家に帰る前に、彼女は別れの挨拶をして行ったのであった。

「おじさん、わたしたち子供達を温かく見守って下さっていたのですね、有り難うございました。お陰様で今日の午後は楽しく過ごすことが出来ました。さようなら」

そんな風に言いたかったのかも知れない。

気がついてみると、女の子は目の前から姿を消していた。でも、大人顔負けのエレガントな身のこなしがいつまでもわたしの脳裏に焼き付いてしまった。

さて、我が息子たちはいつになったら、家に帰るのか。Danke.



典型的なオーストリア夏の、暑い日々、午前

正午前、気温は既に摂氏20数度となっていた。今日も午後からはもっと暑くなるようだ。わたしはどこかの会社等に勤めているというわけでもなく、――実は悲しいかな、失業中――だから夏休みの時期が来たから一ヶ月間ほどの長い夏休みを当然の権利として浮き浮きしながらまとめて取るといった、そんな特別な感覚はなく、わたしにとっては一年中、寧ろ毎日が夏休みみたいなものだ、とちょっと自虐的に言ったり書いたりしてみる。いや、もう書いてしまった。気が付いて見たらもう夏だった、でもいつもの如く家で休んでいる、だから夏の、休み、だ、といった塩梅。


我が家、5階建てアパートの一室を借りているのだが、そのバルコン(ドイツ語ではそういうが、ベランダのこと)でわたしは、午前中、一人で太陽と付き合っていた。日光浴をしていた。上半身は裸で、日本式のゴザを敷いて、その上に悠然と体を横たえていた。太陽が余りにも眩しいのでサングラスを掛けていた。


一方、我家の子供達は家の中で"暴れ"回っている。何を言っても言う事を聞かない、聞く耳がないみたいだ。静かにしていられないらしい。

母親は子供達に言う。「あんた達、どうも、お耳が病気になっているようね。詰まっているのかも知れないから、耳のお医者さんに行って直して貰わないといけないわね」

そんな風に言って、脅すというか、諭すというのか、でも親の言うことを素直には聞かない。聞きたくないのか。親はおやおや、困ったものだと思いながらも、具体的な対策が浮かばない。


子供達にとっては親の忠告も馬耳東風、家の中、日本に住んでいた時の部屋よりもやや大きめの部屋から部屋へと、じっとしていられない、我家の動く“家具一式”は勝手に駆け回っている。まるで運動会だ。雄叫(おたけび)を上げながら、追っかけっこだ。


どうして外へと出て行かないのか。どうして下の中庭の芝生へと下りて行ってそこで遊ばないのか。外の方がよっぽどスペースが十分にあるのに、何も狭い家の中で駆け回らなくても良いではないか。

日本の、お相撲さんのつもりでいるのかもしれない、などと彼等達の立場に立ってその理由をわたしなりに好意的に考えてみたりしている。狭い土俵の上で取り組むから色々と技能が磨かれるのだ。土俵が広かったり、広すぎたらお相撲さんは相撲取りにはならず、追っかけごっこをすることになってしまうかも知れない。


4人の育ち盛りのエネルギーに満ち満ちた男の子達相手に母親はほとほと参ってしまう。母親はもう一度、子供達に向かって宣言する。

「あんた達、お耳の中、何かが詰まってしまっているのね。耳のお医者さんの所へ行って見て貰わないといけないようね!」

「お耳は“kaputt 壊れている”ようだから、お医者さんに行って新しい耳を作って貰いましょう!」

間接的な言い方では効き目はない。少しく命令調になる。                     
「家の中では静かにしていなさい! 駆け回らないの!」

「お外へ行って遊びなさい!」

脅し始める。

「下の階に住んでいるおじさんがうるさい、静かにしなさい、と言って来るでしょう!」

実は、まだ一度も言って来たことがないのだが、それを知っている子供達。

でも、子供達、相変わらず、聞く耳がないみたいだ。困った、困った。わたしはじっとしたままだ。手持ちぶたさのわたしは、本を持ってくるのを忘れてしまったのを思い出していると、うまい具合にとでも言うのか、母親のそんな、あんな小言が一緒に纏められた耳で聞く全集が、外のバルコンで寝転がっているわたしの耳元まで届けられてくるのであった。

わたしは相変わらず何もしない。口を挟まない。そんなことをしたら、家の中がますます騒がしくなるだけだ。女三人寄れば姦(かしま)しいというが、子供四人寄れば、ナントヤラ、更に大の大人が二人追加的に寄ってたかってしまうと、下の階に住んでいるおじさんが今度こそ、本気になって、例外的に駆け上がって来るかも知れない。「あんた達、うるさい! うるさい! 静かにせい!」と。
 


少し暑さが和らぐ午後の時間帯には、またまたわたしが登場しないと、我が奥さん、ストレスが溜まりっぱなしで、健康上宜しくないし、またわたしに対する風当たりも強くなってくるようだし、とわたしは先回りしてそれなりに心の準備をしている。覚悟している。家の旦那は何もしないでいい気に寝転がっているだけだと思われてしまうからだ。

そう、家の中には落ち着きがないということで、我が奥さん、今日の午後もまた、静かな寝室へと一人退き、密かに嘆息、そしてもうひとつ嘆息か。吐息をつきながらベッドの上にバタン休、の休息と相成ってしまうのかな、息抜きが十二分に取れるよう、わたしがまた子供達の相手をしなければならぬかな、と考えながらも、わたしは相変わらずバルコンで一人ゴザの上、この家には居ないのよといった風情を保っている。

サングラスを掛けて、恰も自分には何も見えない、序でに何も聞こえないといった姿勢を保っている。眩しい太陽に顔を向け、目をつぶったまま、だから何も見えないのだが、寝転がり続けているのだった。


 
今年の夏、このくそ暑い盛りに、お互いに何もやる事が浮かばないのか、暇なのか。頭が働かないのか。何処かに遠出すると言ったって車があるわけでもないし、御近所の人たちのように、外国へ、今年はやれイタリアへ、やれギリシャだ、やれトルコだ、やれ、どこそこへだ、と言いながら自慢しているのか、羨ましがらせようとしているのか、それを避暑というのか、一家総出で場所を替える運動に参加出来る時間はこっちだって自慢出来るほどに、そして持ちきれないほどにあっても、金銭的な余裕が伴わない、だから我が家の大人達は、やれ、どこそこへ、やれ、あっちだ、こっちだとは言わない、子供達だけがやれ、あっちだ、やれ、こっちだ、とあっちこっちごっごを狭い空間の中でやっているだけ。


そもそも何処へ行けば良いのか、と自問自答すること、何度もあったが、決定的な答えなど浮かぶ筈がなく、結局、家の中、みんなで仲良く手をつないで、ではなかったが、燻っているだけであった。

毎日が毎日の続きみたいに毎日がこのところ毎日暑く過ぎ去ってゆくのをお互いに毎日我慢しているようでもあった。今日もそんな毎日であった。




 「ねえ、午後には子供達をプールへ連れていって頂戴ね!」


聞き様によっては、命令調でもあれば嘆願調でもある。わたしも「いやだよ!」とも言えない。暇を持て余している我々家族全員だ。我が奥さんはそうとは思っていないであろうが。自分がこの世で一番忙しい、と。でも、この暑さ!エアコンが家の中にあるわけでもなし、窓という窓は全部開け放してはあるが、涼しい風が吹き込んでくるというわけでもない。


皆んな、思いは同じだ。入れ替わり立ち替わり機会を捉えては、気晴らしにか、何か目新しいものでも見つかるかも、と「開けごま!」と実は自分で冷蔵庫の扉を開けては冷たいミネラル水の入ったボトルを取り出し、がぶがぶと水ばっかり飲んでいる。脳天の後の方がキーンとなるので暑さを一気に忘れる気分になるのだ。でも飲み過ぎはお腹にも宜しくない。


 「“プール”って、パスに乗ってリンツの市街地、ドナウ川沿いまで行かねばならないのかな?」とわたし。


  「歩いて行けるわよ。直ぐ近くに、子供用のプールがあるのよ。しかも無料よ。」


  「へえ、そんな所あったかな?」


  「ほら、知らないの、郵便局へ行く途中よ。」


郵便局には3、4度、一人で行ったことがあるが、そんな場所、見たこともない。尤も関心がないと目には入って来ないことも確かだ。


わたしにとっては初耳であった。近所にそんな場所があったかどうか、わたしは奥さんのように買い物やら何やらでそこら中を頻繁に歩き回るほどのこともしていないから、近所にそんな場所があるということなど全然知らなかった。


我が奥さん、口には出さないが・・・・・、そう、わたしにはもう分かっているのだ。わたしと子供達とを何とか家の外に、目障りだから、掃き出したいのだ。わたしは反抗することもなく、出来ず、提案をすんなりと受入れた。これを所謂家族サービスと言うのか。


我が奥さん、午後はゆっくりと誰にも邪魔されず優雅に休養を取りたいのだ。その気持ちは分かるよ、わたしも。まあ、ゆっくりとくつろいで頂きましょう。子育ては本当にストレスが溜まってしまう。