愛しのアウグスティン1

オーストリアの国道やアウトバーンを走る長距離トラック、時にAugustin という文字がデカデカと記されている、
そのトラック会社の会社名なのかは定かではないが、見ることがある。
なぜ見るのか、なぜ意識的に目に入ってくるのか、
といえば、私にとっては懐かしい、馴染みのある名前になっているからだ。

オーストリア人、大人にも子供たちにも人気のある、アウグスティン、
愛しのアウグスティンについて調べたことがあった。色々と資料を読み漁ったことがある。
そして、愛しのアウグスティンについて、その人生を私なりに描いてみた。
オーストリアに住んでいる自分としてはオーストリア人のことをもっと理解できるようにと思っている。

それを今回は御紹介したい。
以下の通り。



時は下って下って、、、、、17世紀も後半。

所は、ウィーン。古きウィーン、昔のウィーン。


その人とは、Der liebe Augustin。「愛(いと)しのアウグスティン」。

通例、そう呼ばれるようになったようです。 あだ名、愛称ですね。


で、この「愛しのアウグスティン」とは誰? 

今風に言えば、ミュージシャン。 流しの歌手。

楽器は何を弾いていたのかというと、ドイツ語で言う、Dudelsack。パックパイプ。風笛。

バックパイプと聞くと、わたしなどは直ぐにスットコランドを連想し、スカートを履いた男たちが両頬を膨らませバックパイプを吹きながら行進している姿が目に浮かびます。その楽器が奏でる音も実際に聞いたことがありますが、耳の鼓膜をやけに神経質にさせるものです。
 

さて、昔の古きウィーンを想像してみる。

1679年の冬も終わろうとしていた。ウィーンの人々の生活は全てが順調だった。このバックパイプ吹きは毎晩、酒場に行っては演奏しながら歌っていた。酒場にやってくる客たちはアウグスティンのそんな演奏や歌を楽しむ。アウグスティンが提供してくれる楽しい夜の一時を過ごすのであった。

酒場の店主にとってもアウグスティンは大歓迎であった。何故かって、アウグスティンがやって来てくれれば、たくさんのお客が集まり、売り上げも増えるといった具合。

アウグスティンにとっても、好都合であった。Fleischmarkt 肉市場にある「赤い屋根」と呼ばれる酒場へと毎晩行き、自分の演奏と歌で客たちを楽しませ、店主の懐も暖かくさせることが出来る。店主は喜んでアウグスティンが好きなビールを飲ませてあげる。食事も出して上げる。そのくらいのサービスは店主にとっては当然であった。 店主の懐が暖かくなることは言わずもがなであった。

アウグスティンが現れる酒場はいつも、客で一杯になるのであった。勿論、客の腹の中も酒で一杯になる。

今晩もアウグスティンの演奏を楽しめるぞ、アウグスティンの歌を聞いてご機嫌になる客たち。



この年の春、ウィーンの人たちにとっては別の意味で、長く記憶に残る年となった言える。

全てが急激に変わってしまった。多くの家庭では病気が、そして死者が出た年でもあった。

こんなことになるのも二度目であった。
 

こんなこと? 

ハンガリーから侵入して来たそうだが、それもひっそりと忍び込んで来たそうだが、ウィーンはペストに見舞われた。

ペストは短時日のうちにウィーンの街を総なめにしてしまった。2、3週間のうちに何千という人が亡くなった。殆ど全ての家にペストは訪れた。ペストに罹るのを恐れてウィーンの街を去ることが出来た人はそうした。 またある人は世界の終わりを感じ取り、貯金を無駄に使い果たすのであった。

病人の数は日に日に増し続け、死亡件数も増え、路上でのたれ死に会う人たちも出て来た。死者が路上に横たわったまましばらくは放置されたままになることも珍しくなかった。富んでいる者も貧しき者も、老いも若きも、男であろうと女であろうとこのペストの犠牲になった。

かくして、ウィーンの街中、色々な状況下で亡くなった死者、その死体でうず高く積まれた荷車が絶え間なく行き交った。ウィーン市に雇われた死体運搬人は路上、放置されたままの死体を見つければ拾い上げ、 死体運搬車に積み上げ、市の外、ペストで死亡した人たちを処理するために特別に掘られた大きな穴、ペスト穴に放り込むのであった。穴が死体で一杯になった時には穴は埋められることになっていた。

当時、ウィーンには愉快な歌手でもあり、バックパイプ吹きでもあったアウグスティンという人も住んでいた。
つづき→その2へ

トニー・ザイラー、故郷のチロルで死す

トニー・ザイラー、故郷のチロルで死す
25. Aug http://www.netzeitung.de/sport/mehrsport/1442079.html
オーストリアのとても有名なスキーヤー、あのトニー・ザイラーは長いこと病床にあったが、チロルの故郷で亡くなった。キッツビュル出身のマルチタレントは「人間的に大きな穴」を残していった、とトニー・ザイラーのスキークラブは悼む。

toniseiler.jpgFoto:dpa

オーストリアはチロル出身のオリッピック勝者であり世界チャンピョンは長いこと病に患っていたが、月曜日(2009年8月24日)、インスブルックのクリニックで亡くなった、享年73歳、とキッツビュルのスキークラブK.S.Cは翌火曜日に発表、オーストリアの報道機関APA社の報道を確認する形となった。ザイラーは人間的に大きな穴を後に残していった、と同クラブはコメント。このクラブはハーネンカム競走もオーガナイズしている。


 1946年から1958年までたったの12年間続いた現役時代に「キッツの黒い稲妻」はオリンピックで金メダルを3度、世界チャンピョンに7回なった。1956年、イタリアのコルティーナでの冬季オリンピックでは白いスキー帽(?)を被った本人は金メダル3個、4つの世界チャンピョンタイトルを獲得した。しかもキッツビュルでの悪名高きハーネンカム競走でも何度も勝利した。たったの23才でザイラーは引退を表明。それでも次々と勝利を獲得して行ったゆえにオーストリアでは第二次世界大戦後の若者たちのアイドルとなった、とAPA社は評した。



エルフリーデ・イェリネック、オーストリア人女性初めての、そして10番目の女性ノーベル文学賞受賞者

Women As Lovers
The Piano Teacher (Five Star Title) (ペーパーバック)

オーストリアの女流作家、エルフリーデ・イェリネックは、2004年、ノーベル文学賞を受賞した。

以下は、オーストリアの新聞に載った、イェリネックとのインタビュー記事です。
vom 08.10.2005 http://www.nachrichten.at/kultur/392008

いまの自分は自由だと感じています

質問:昨年(2004年)はノーベル文学賞の受賞者でしたね。あなたにとっては全てが気持良くないことだという印象を受けたのですが、昨年のことについては無視したい思いですか?

イェリネック:賞金と栄誉はもちろんそうではありません。わたしが受賞したことについて色々と周りから反応があったのですが、わたしとしてはそれら反応の殆ど全てを無視したいです。

質問:そうするとポジティヴなことはもう何もないのですか? あなたの本は以前よりも多くの人たちに読まれるようになりましたし、しかも世界的に知られるようになりました。

イェリネック:それはそうですね。いまは翻訳の仕事も増えています。難しい本の翻訳もです。

質問:当時はショックを受けたかのように公共の場からより一層身を引くようにされましたが、個人的な状況は良くなりましたか?

イェリネック:いいえ、残念ながら以前からあったこと全てが強まりました。で結局人間社会から隔離されることになりました。でもそれがそんなに悪いとはわたしは思いません。いまはお陰さまで自分は自由であると感じていますし、全ての義務から解放されました。ノーベル賞の授賞式に参加しなかった後にあっては、わたしはどこへも顔を出す必要もありません。

(訳者の憶測的なコメント→)彼女が言う「自由」とは?  自分ひとりになって、だれからも相手にされないでいられるという”自由”のことでしょうか。人間との係わり合いが煩わしいと感じていた、感じている彼女のようでもあります。
 
質問:ということは当時の決定については後悔してないのですね?

イェリネック:あれは何らの決定でもありませんでした。わたしにはそうする他になかったのです。病人は自分では決定できません。

(訳者の解釈→)「決定」とは何のことでしょうかね? 当時の状況を知らないとちょっと判りかねますね。授賞式に参加しなかったこと、それを質問者は彼女自身の「決定」でそうなったと見ているのでしょう。彼女は当時、病気だったようです、確か。

質問:執筆は今はどのようにいっていますか?

イェリネック:今は自分の好きなことが書けます。金銭上の心配事は消えましたし、全ての義務からも身を引くことができます。つまり仕事にもっと時間が取れるようになりました。たくさん翻訳をしました。現在はオスカー・ワイルドの「理想の良人」を翻訳しています。Schlingensief シリンゲンズィーフのためにちょっとしたテキストを書きました。彼は今アフリカでご自分のバイロイトでの"パルシファルl"-体験について映画を撮影中です。

それからジャンベンで一気に書いた大戯曲を完成させました。「ウルリーケ・マリア・スチュアート」です。シラーのスチュアート戯曲風にパラフレーズしたものです。 ウルリーケ・マインホーフとグードゥロン・エンスリンを取り扱っています。

 質問:その戯曲の演出は誰がしますか?

イェリネック:とにかくニコラス・シュテマンがやるでしょう。ヨーシィ・ヴィーラー でも期待したいし。そうすればお互いに素敵な対照をなすでしょう。

 質問:今年(2005年)のノーベル文学賞はだれが受賞するか、その発表に関心がありますか?

イェリネック:もちろん、ワクワクしながら成り行きを見守ります。この賞はとても素敵なものだとおもいます、というのもkriminologisch 犯罪の犯人を突き止めるかのように進められてゆくからです。発表前には外には何も出てきません。

 質問:あなたの後継者にたいして何か忠告はありますか?
イェリネック:わたしに続く受賞者は男性にせよ、女性にせよ、その賞を享受できると良いですね。授賞式は素晴らしいものです。わたしの場合はインターネット 上でその式次第を見ました。がスウェーデン王立アカデミーの事務総長、ホーレイス・エングダールさんの演出は素晴らしかったです。

質問:賞金は投資に回しましたか?                                    
イェリネック:賞金はいつでも引き出せるよう低利の銀行口座に預けてあります。ノーベル賞の賞金は投機目的のためにあるとは思いません。でもお陰さまでミュンヘンにもっと大きなアパートを借りることが出来ました。
(賞金」額はどのくらいでしょう?)



Elfriede Jelinek、エルフリーデ・イェリネック、オーストリア 出身の女性作家、1946年、10月20日生。
  
彼女の名前、聞いたことがありますか。オーストリアからのノーベル文学賞受賞ということで世界中に名が知られるようになりました。彼女の本とかを読んだことがありますか。



以下は、2004年のノーベル文学賞発表の新聞報道記事(ドイツ語)です。
Elfriede Jelinek erhaelt Literatur-Nobelpreis
Stockholm, 07-10-04
Elfriede Jelinek (57) ist die erste österreichische Literatur- Nobelpreisträgerin. Dies gab die Königlich Schwedische Akademie der Wissenschaften am Donnerstag bekannt. Sie wird für "den musikalischen Fluß von Stimmen und Gegenstimmen in Romanen und Dramen, die mit einzigartiger sprachlicher Leidenschaft die Absurdität und zwingende Macht der sozialen Klischees enthüllen" ausgezeichnet. Jelinek ist damit die zehnte weibliche Literatur-Nobelpreisträgerin in der Geschichte der Auszeichnung. (apa)
                
報道の新聞記事はそんなに理解し難いとは思われませんでしたが、記事中の引用文(下線を引いてみました)、つまり受賞理由を理解するのはちょっと難しく感じた次第でした。文学批評的、抽象的表現になっているからでしょうか(笑)。        
        
まずは、この文。
Elfriede Jelinek (57) ist die erste österreichische Literatur-Nobelpreisträgerin.
    
文字通り「直訳的に」訳すと、
「エルフリーデ・イェリネク(57)は最初の、オーストリア人のノーベル文学賞受賞者である。」

でも、この記事を書いた記者は、彼女がオーストリア人女性として初めての受賞だ!!! ということを伝えたいわけですよ、多分。

いや、「オーストリア人として、しかも女性としては、ノーベル文学賞、初めてだ!(バンザイ!!)」と叫びたい所でしょう、おなじオーストリア人として、多分。
     
オーストリアの女性作家、受賞のニュースを受け取ったご本人とのインタビューでも、「全然予想していなかった」と第一の感想を述べていました。 「でも嬉しい」と。「でも喜びよりも絶望を感じる」とも。でも、でも、でも、とちょっと複雑な心境を吐露していました。

他の国の、ノーベル文学賞”女性”受賞者たち こちら
 

彼女の受賞の理由が簡潔に、しかし凝縮されて述べられているのがこれ。   
"den musikalischen Fluß von Stimmen und Gegenstimmen in Romanen und Dramen, die mit einzigartiger sprachlicher Leidenschaft die Absurdität und zwingende Macht der sozialen Klischees enthüllen"         
先ずはこの部分。
den musikalischen Fluß von Stimmen und Gegenstimmen in Romanen
und Dramen,

      
わたしなりに噛み砕いて大意を記すと、      
「小説、戯曲の中では(読み進んでゆくうちに聞こえてくるであろう)複数の声、そしてそれらの声に対抗する別の声が音楽のように流れるように表現、描写されているということ、その文芸的創作技法に対して」
      
本当に”声”が聞こえてくるのですか、ちょっと聞いてみたい気もしますが、どんな声でしょう? 怖い声かも。実際に読んでみないと経験できません。(それでは、試しに読んでみようか、という気持になるかも)      
      
次は続きの部分
die mit einzigartiger sprachlicher Leidenschaft die Absurdität und zwingende Macht der sozialen Klischees enthüllen
     
一番先にある die は関係代名詞で、その前にある Romanen und Dramen を先行詞とする。
これが”主語”のような立場、資格で、つづきの文へと繋がって行く。
     
”主語”が Romanen und Dramen ならば、     
     
”述語”、動詞は何か、というと enthüllen 暴露する、暴く      

この動詞の「目的語」は何か、というと die Absurdität und zwingende Macht der sozialen Klischees
      
社会的な決まり文句のバカバカしさ及びその(決まり文句が及ぼしてくる、または及ぼす)押し付けがましい権力
      
      
付加語的に記された、これは 
mit einzigartiger sprachlicher Leidenschaft
     
彼女自身の中にある、言葉を使って何かを表現しようとする無比なる(類い稀なる)情熱を伴って、または情熱振りに 
              
     
まとめてみると、     
「彼女の小説、戯曲の中では(読み進んでゆくうちに聞こえてくるであろう)複数の声、そしてそれらの声に対抗する別の複数の声とが恰も音楽のように流れるかのように表現、描写されているということ、その創作技法を理由として賞を贈る」、と。
      
つまり、
”言葉で以って音楽を奏でているかのように表現できている”、書けているいう出来ばえ振りを受賞の理由にしている。
          
別言すると、音楽の流れを聞いているかのように作品が読める、ということですね。そして、その音楽というのは声のように聞こえ来る。一方からの声、そして他方かもその声に対抗するかのような別の声が聞こえてくる、ということですね、多分。
      
で、その小説や戯曲では何が表現されているかというと、彼女自身の中にある、言葉を使って何かを表現しようとする無比なる情熱さを以って、社会に流布する色々な決まり文句のバカバカしさ、または不条理性及びその押し付けがましい文句、その文句が作用する権力の実態を暴いている。
          
結構、反抗的であり、社会批判であり、革命的でもあるのでしょうか。
      

    *   *
         
如何ですか、このドイツ語で書かれた受賞理由を噛み砕くように翻訳、試みました。書き進んでいるうちに、何故かドイツ語翻訳教室みたいになってしまいました(笑い)。     

まだ続きますが、ここまでの読後感は如何でしたか? 
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以下では引き続き、「臨時英語翻訳講座」も続きます(笑)。

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作家の開高健(かいこう たけし)の印象記



アウシュヴィッツ。ポーランドの、余りにも有名な(または悪名高き)強制労働収容所があった所ですが、そこともう一つビルケナウを訪れた作家の開高健(かいこう たけし)が印象を語っています。


建物の外へでると銃殺のときにたたせた煉瓦壁や絞首台などを見せられた。親衛隊員の部屋は机と椅子と書類タンスのほかはなにもなかった。むきだしの壁にハッタとにらんでほえているヒトラーの小さな写真がかかり、スローガンが一枚、

 「国家は一つ、民族は一つ、総統は一人。

  と書いてあった。

 銃殺の煉瓦壁のすぐむこうには高圧電流の鉄柵ごしに公会堂風の建物が見えた。それはこの収容所に勤務していた親衛隊員や国防軍の士官、下士、兵士たちの娯楽室で、週末などにワーグナーやベートーヴェンやモーツァルトなどを演奏し、またオペラまがいのものを上演したりして、地獄の釜のふちで芸術に感動していたのである。

 アウシュヴィッツを見終わってから自動車で五分ほどのビルケナウへいった。この収容所に例のガス室と火葬室があったのだが、ナチスが一九四四年に撤退するとき爆破してしまったので、いまは爆破当時の火薬の走った方向を示すままにコンクリートの巨大な破片が草むらに散乱しているだけである。ここは六ヶ国語で「浴槽へ。」と書かれ、貨車に満載した囚人たちを引込線で収容所の構内につれてくるとそこに設けられたコンクリート台のプラットフォームにおろし、いんぎんに消毒と入浴を口実にして素っ裸にされ、鉄条網のなかを行進させてチクロンで虐殺したわけである。これはまさに殺人工場である。ガス室のすぐとなりに焼却炉の部屋があり、ここで死体を焼いた。焼却能力は一日に約二千人であったから、余った死体、およびアウシュヴィッツとビルケナウ両収容所で毎日おびただしく発生する過労死体、病死体、拷問による死体、ときたま起こる自殺死体などをあわせてどこかで別に処理する必要に迫られた。そこで森のなかに空地をつくって巨大な溝や穴を掘り、ガソリンをかけて昼となく夜となく燃やしたのである。そ のあとへもいってみた。松や白樺や樅などの雑木林のなかに草ぼうぼうの空地があり、池があった。池はもとの死体焼却の穴である。大きすぎるから埋めるよりは水をためてかくそうということになって池になったわけである。

 「・・・・・・おいでなさい。」

 

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オーストリア国元大統領のヴァルトハイム、亡くなる

ウィーン発――
オーストリア国の元大統領、クルト・ヴァルトハイムは本日(2007年6月14日)の昼、ウィーンで、心臓血液循環機能停止に陥った。家族の見守る中、死亡した。

ヴァルトハイムは5月末日、「熱を帯びた風邪」でウィーンの総合病院、集中治療室に運び込まれた。が、もう一度退院することが出来た。本日、正午45分、家族たちが見守る中、自宅で死亡したと、義理の息子、欧州連合の代議員であるオトマール・カラスが問い合わせに応じて発表した。88才のヴァルトハイムは家族からの情報によると、心臓機能停止が原因で死亡した。

ヴァルトハイムは1972年から1981年まで国連の事務総長、  1986年から1992年までオーストリア国の大統領だった。
(Alt-Bundespräsident Waldheim gestorben vom 14.06.2007 http://www.nachrichten.at/politik/innenpolitik/560212

愛しのアウグスティン3

<さて、ここで唐突だが、別バージョン、アウグスティンが助かった時の状況描写>



丁度そのとき、死体を積んだ荷車と死体運搬人が現れた。死体の上と言うのか、死体の間とでも言うのか、穴の中で行ったり来たり、うごめいている一人の男を発見した運搬人たちは吃驚仰天。

アウグスティンは運搬人たちに向って、罵るように大声で叫んだ。

『おーい、助けてくれ! この穴の縁には手が届かないし、このいまいましい穴からよじ登って出られないでいるが分からないのか!?』

運搬人の一人が口を開いた。

『あいつは昨晩、死んだものとして路上に横たわっていたし、だから穴に放り込んだ筈。奴さん、運が良かったな。昨日、まだ穴は死体で一杯になっていなかったから埋められずに済んだというわけだ。泥酔したまま埋められてしまって目覚めることもなかっただろうに』

アウグスティンはしかし、じりじりしていた。助けが遅すぎるのだ。ゆっくりし過ぎるのだ。

『ペスト穴には一晩だけでも充分だ!』怒りながら叫んだ。『ここにこれ以上留まってはいたくないだ。早く、引っ張り出してくれよ!』

 

アウグスティンは穴から引っ張り出された。ぷりぷりしながらその場を去った。ペストに罹った死体と一緒に一晩を過ごしたアウグスティンではあったが、何ら感染することもなかった。不死身のアウグスティン。以前からそうであったように、健康であることに変わりはなく、酒場「赤い屋根」にやってくる客はアウグスティンに新たな魅力を感じるのであった。ぞっとするような、そう、身の毛もよだつ経験、いや冒険については歌にして優美に、時に気取った風に人々に聞かせるアウグスティンであった。

     


ペストがなんだ、そんなものオレには関係ないよ。ペストに罹ることもなく、長生きして、1702年に死亡した。自然死であった、と。

本名は Marx Augustin というらしい。

どうしてペストに罹ることがなかったのか? 回りの人たちは罹り、死んで行ったのに、この人は最初から免疫が付いていたらしい.その免疫とは?色々と憶測することはできるでしょうが、実際の話、罹らなかったというのだから、驚き、モモの木、山椒の木。この人、どこか普通のウィーン人ではなかったのかもしれません。

楽天的で、ユーモアがある。いつも回りの人を喜ばしている、そんな人には陰気な病気は近寄ってこないのだ。病気の方が逃げて行く。

人生を愉快に、楽しく過ごしたく思う人、古今東西、どこの地にあったとしても、同じ気持ちを持っている。

今世紀に生きるオーストリア人の血の中には、こうした「愛しのアウグスティン」の心意気、大らかさ、大胆さ、笑い飛ばしが受け継がれているのだろう。今日のオーストリア人にも引き継がれているわけなのだろう。

愛しのアウグスティン、人生モットー
”Lustig gelebt und lustig gestorben ist dem Teufel die Rechnung verdorben."                    
「楽しく生き楽しく死んでは死神様も近寄らんのだ」Danke.

愛しのアウグスティン2

ウィーンの人たちにとっては大変なことが起こった。そうした困難を迎えたときにも、この愉快な歌い手は相変わらず、好みの酒場へ行っては歌っていた。バックパイプを吹いていた。

ウィーンの人たちはいつものように、いつもの習慣で酒場にやって来ては、酒を注文、仲間や知り合いと談笑するのであった。そこにはまた別の楽しみもあった。アウグスティンが歌って弾いてくれて、そのユーモアたっぷりの歌いぶりに酔うのでもあった。


「赤い屋根」という居酒屋で時を過ごすのが好きなアウグスティンであった。そこでは自分の楽器を巧みに弾き、歌を歌うのであった。ペストがウィーンをそんなにも急速に襲いつつあるとは想像も出来ないことであった。どこもウィーンの市民たちによる伝染を恐れ て酒場への足も向かなくなってきたが、「赤い屋根」はいつも客で満たされた。というのもアウグスティンのユーモア、そこでの飲み物ビールとアウグスティンが弾くバッグパイプの陽気な音を聞いて毎日の苦しみを忘れようとしたからであった。

最初のうちはまだ良かった。アウグスティンも人々を喜ばせることが出来た。だが各家庭に一人、また一人、二人と死亡者が出て来ると、人々は家の外へと出掛けることを本当に避けるようになった。死者を弔うということで家に閉じこもることでもあっただろうが、またペストに罹るのではないかと恐れて外出をしなくなった。

9月のある晴れた日(今から何年前のことになるだろうか)、ある晩のことであった、アウグスティンはいつになく沈み込んでいた。酒場は殆どどこも閉まっていたからであった。自分の楽しい演奏を聞きたいという人がいなくなってしまった。アウグスティン行つけの酒場の店主はペストが襲って来る前のアウグスティンのサービス精神を忘れていたわけではなかった、いつも店を一杯にしてくれていたアウグスティン、今はその酒杯を一杯にしてあげては、お互いに杯を何度も交わすのであった。その日、お客は一人も現れなかった。

 

”Alles ist hin”
( 全ては 去ってしまった・・ 全て、とは何を指しているのでしょうかね 。

お客のこと、楽しく過ごしていた時間のこと、

ウィーン人々が次々にペストで亡くなって行ったこと、
Geld ist weg, 所持金がなくなってしまったこと、
Mäd´l ist weg  あの娘が行ってしまったこと、あの娘ってだれのことだろう?・・・・・・・

Alles ist hin 全てはもうなくなった、この筆者は不思議がっているのですが、、、、)

”Alles ist hin"と何だか悲しそうにリフレーンを口ずさみながら何度も乾杯を繰り返し、塞ぎこんだ自分を慰めるのであった。 真夜中の零時を回る頃には、アウグスティンと店主の二人ともぐでんぐでんに酔っ払ってしまった。自分の家にもう帰らなければならないアウグスティン。夜はとっぷりと暮れた。店主と別れの挨拶を交わした後、以前はあんなにも活気があった演奏会場を去ったのである。

城壁の外にある自分の居所へと戻って行こうとした。が、足が利かない、というのか思うように進めない。アウグスティンの足元 はおぼつかない。千鳥足。

”I bin fett.”と何度も呟きながら歩いていたかは不明。

 

Kohlmarkt 石炭市場から城門へと差し掛かったとき、アウグスティンは何かに躓き、道路の脇に転び、起き上がることも出来ず、そのままそこに留まったまま寝入ってしまった。余りにも深く寝入ってしまったので、ペスト死体運搬人たちが近くで路上に倒れている死体を集め、拾い集めて来た死体が載った荷車に更に新たな死体を載せていっていることも気が付かなかった。

『ほら、こっちの方にも』 

運搬人のひとりが驚いて叫んだ、そして三度 、十字を切った。

『おお、これはアウグスティンではないか! アウグスティンまでもやられてしまっては、世界ももうそんなに長くは続かんな』
 

悲しくも、運搬人たちは車にその死体を載せ、序にバグパイプも死体の上に放り投げた。アウグスティンを載せた死体運搬荷車は St.Ulrich にあるペスト穴へと向って行った。 車にうずたかく積まれて来た死体は全部、大きな穴の中へと捨てられた。

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